『Fate/Apocrypha』から学ぶ!一番わかりやすい『FGO』原典紹介(後編)

・史実と伝承が入り交じる「ツェペシュ」ヴラド3世

1705_fgo03_07.jpg<Wikimedia Commonsより。ヴラド3世の肖像画>

 紆余曲折を経てワラキア公国君主としての地位に就いたヴラド3世は、貿易の保護をはじめとする内政政策を数多く行い、国の経済を豊かにするなど、君主としての働きをそつなくこなしていました。

 ところでこの頃のワラキア公国は、家臣であるはずの有力貴族たちが幅を利かせており、君主の持つ権力はそれほど強いものではありませんでした。そこでヴラド3世は国を強くするべく、自身に権力を集めての中央集権化を図りました。彼はその最中に有力貴族たちを数多く処刑しており、その人数はその家族も含めて500人とも2000人とも言われています。

 この時に使われた処刑方法こそが、ヴラド3世の二つ名である「ツェペシュ」、「串刺し刑」です。これは巨大な串を罪人の口または肛門に突き刺した後、それを地面に突き立て、死ぬまで放置するというものです。現代の感覚から見れば残酷な処刑方法ですが、当時の西欧では広く行われていた一般的なものでした。

 ヴラド3世は確かに自身と法に背くものを容赦なく殺していますが、これは当時の権力者にとって当たり前のことでした。また国内の貧困層の虐殺も行っていますが、これは当時、浮浪者は犯罪者と考えられていたためで、ヴラド3世が他の君主たちと比べて特別に残虐であった、という訳ではありません。むしろこれら処刑などは見せしめとして大きな効果を上げ、ワラキア公国内の治安の維持と向上に貢献したといいます。

 この串刺し刑は、対立関係にあった大国「オスマン・トルコ帝国」からの侵略を受けた際に役立っています。3倍以上もある兵力の劣勢をもって、ヴラド3世と農民兵たちはゲリラ戦術と、後退の際に敵の利用できるワラキア国内の施設を自ら破壊する焦土作戦によって徹底的に抵抗、激しく戦いました。

 少しずつ戦力を削られ士気も下がっていたオスマン軍にとどめを刺したのは、ワラキアの首都周辺に立てられていた、まるで森のような「オスマン兵捕虜の串刺し」です。その数は2万にも及ぶ数と伝えられており、それを見たオスマン軍は完全に戦意を消失、撤退して行ったのです。

 実のところ、ヴラド3世にまつわる残忍な伝説の数々は、ヴラド3世を嫌っていた人々が事実を誇張して伝えた、あるいはヒントとして創作したものなのです。これによってヴラド3世は極悪人である、というイメージが定着し、ヴラド3世の死後には残忍な伝説ばかりが有名になり、悪魔のような扱いを受けるに至ってしまいました。

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