ウルティモ・ドラゴンの挑戦「僕はプロレスを変えた。でも、今のプロレスは好きではない」

──WCW行きの経緯を聞かせてください。

ウルティモ 当時、メキシコからレイ・ミステリオJr.とかさまざまなレスラーがWCWに行っていて、クルーザー級を活性化させるという話があったんですよ。それを聞きつけて、いろんなツテを使ってアメリカに行きました。そしたら、いきなりデビュー戦でPPVで。ミステリオを相手に日本スタイルの叩き潰すような試合をしたんですけど、それがいい評価をもらってWCWから契約の話をもらいました。その当時、僕はジュニア8冠王座を持ってて、当時WCW世界クルーザー級王者だったディーン・マレンコと年間で一番大きい大会で防衛戦をして。それに勝つことができたんですが、あれが自分のプロレス人生のハイライトだったんじゃないかと思いますね。

■握力8キロでも見栄えのするファイト

──アメリカでの成功は、プロレス史に残る偉業だったと思います。

ウルティモ でも、アメリカだからということに感慨はないんですよ。日本人は「全米で」とか「世界で」って言葉が好きですけど、自分は出発点がメキシコだったから「世界」ってものに特別な感覚はないですね。たまたま大きな舞台に立ったのが、アメリカだったというだけで。

──アメリカで学んだことは何でしょう?

ウルティモ アメリカでは、ビジネスについてすごく学ばせてもらいましたよ。アメリカのレスラーの収入は、グッズのロイヤリティが、かなりのパーセンテージを占めてるんですよ。そして、たくさんギャラを稼ぐ奴が価値があると。昔はプロレスをやるだけでビジネスになりましたけど、アメリカに行って「今は違うな」と思ったんです。僕は会場で必ず売店に立つんですけど、あれもレスラーにとって大事な仕事ですよ。

──98年の試合中に左肘関節を大ケガ。アメリカで受けた手術が失敗し、神経を痛めてレスラー生命の危機を迎えたことがありました。左手が全く動かないほどの重傷だったようですが、その当時は引退を考えたのでしょうか?

ウルティモ 引退は考えてなかったですね。何がつらかったって、痛みがひどかったんですよ。痛くて死んだ方がマシかなって思うくらいで。その時は引退するかどうかまで頭が回らなかった。それから、いい先生と知り合って3回くらい手術したんですが、全く動かなかった左手が徐々によくなってきて、02年に復帰できました。

──回復はしたものの、現在も左手の握力が8キロほどしかないそうですね。

ウルティモ うーん、8キロもないんじゃないかな。

──プロレスではロープをつかんだり相手をクラッチしたりと握力が重要になる場面が多いと思いますが、最近の試合を拝見すると、そんなハンデを抱えているとは思えない動きです。

ウルティモ だから、それをなるべく使わないファイトスタイルに変えたんですよ。まあでも、動きとしては全盛期の3分の1ですね。プロですから、お客さんにはできるだけ悟られないようにはしていますが。普通だったら復帰できないほどでしたから。僕の主治医は絶対にカムバックさせると言ってくれましたけど、他のお医者さんは「復帰は難しい」と言ってましたね。

──脂が乗り切っていた時期だけに、大ケガと手術ミスは悔しい気持ちがありますか?

ウルティモ 今になってみれば、もしケガをしないで普通に試合を続けてたら、逆にどうなってたんだろうって思いますね。さっきも自分のハイライトって話がありましたけど、人間って上がったら次は落ちるしかないじゃないですか。レスラーは年齢的にファイトスタイルを変えなきゃいけなくなる時期が来るんですが、特に自分は跳び技が多い選手なんで、ケガもなくピンピンしてたら全盛期の危険な技をやりたくなる。それで失敗して頭から落ちたり、もっと大変なことになってたかもなって思いますね。スタイルを変える、いいきっかけになったのかなと。

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