『この世界の片隅に』レビュー by竹内道宏

『この世界の片隅に』――強く、優しく、しぶとく根を張る。そこで再生する誰かの喜怒哀楽を想像し、想いを馳せるために。

『この世界の片隅に』『この世界の片隅に』

 『この世界の片隅に』公開から一ヶ月以上経った気がまるでしない。今もなおSNSなどで口コミで広まり、上映館が毎週増え続けているからだろうか。もしくは100年以上残り続ける作品として、たった一ヶ月間が短く感じるからか。と言うと大げさに思われるだろうか。

 でも、事実なのだから仕方がない。

 全国各地で一週間ごとに《公開初日》が訪れ、そのたびに抑えきれない気持ちを人から人へとつなげていく。劇中に出てくる回覧板のようだ。次々と“誰かに薦めないと気が済まない病”を患う、健やかなパンデミックが拡大を見せている。

 女優・のんの能年玲奈から改名後の活動として、これ以上ない復帰作に恵まれた。これまでに前例のないヒットを遂げている。当初は上映劇場が63館の小規模のスタートだった。それが週が移り変わるごとに興行収入の順位を上げていき、まさに“のん”ストップのまま来年1月には200館以上の規模にまで到達する。また、アニメ作品にもかかわらず多くの高齢者の方が劇場に足を運んでいることも特徴の一つだ。「親子連れが多い。子どもは40代」と、まるでジョークのように言われている。

 どうして自らの体験のように心に残るのか、ここまで老若男女に愛される作品なのか。
 これは戦争映画ではない。戦争を扱っていてもそれをテーマにしない。映し出すのは庶民の生活そのもの。戦争に限らず、災害・事故・病気などで、生きているといつか必ず大切なものを失ってしまう。それはいつの時代でも変わらないだろう。

 今年10月のある日、ご当地・呉で行われた先行上映を観に行った。
 エンドロールの余韻が醒めないまま劇場の外に出ると、劇中で映し出された灰ヶ峰、小春橋、呉港が眺められる。片渕須直監督が舞台挨拶で「タイトルの『この世界』とは、今私たちの居るこの世界のことなんですね」と語っていた通り、あの時代の残り香を確かに感じて、すずさんに倣って“しみじみニヤニヤ”した。
 鑑賞というより《体験》と思えるのは、一人の女性の半生記をリアルに描いているから。
 誰もがかつて子どもだったからこそ、その女性・すずさんと幼い頃から共に生きているような気持ちにさせられるのだ。

■すずさんが走る時、故郷の風景が浮かび上がる。

 物語は主人公・すずさんの幼少期から始まる。
 そのエピソードが原作では『冬の記憶』『大潮の頃』『波のうさぎ』の三つに分かれ、各編ですずさんのその後の人生に大きな影響を及ぼす3人に出会う。つまり、主要人物たちを幼少期から知ることになる。それにより、すずさんと同じく観る者も彼・彼女らに初めて会った気がしない。まるで幼馴染のようだ。豊かな人物描写だけでなく、過去から現在に至るまでの経緯が描かれることでキャラクターに愛着を持たせる。夫・周作さんや遊女・リンさんと出会った記憶が、キャラメルやスイカなど今でも親しまれるアイテムと共に語られることで、昭和と平成との隔たりを無くしている。

 時代を越えて共通していること。それは《かつて皆、子どもだった》ということだろう。誰もが心の中に故郷を持つ。遠かろうが近かろうが、振り返るたびに現在の位置を確認できる場所がある。それがすずさんにとって広島で、決して現代から見る“ヒロシマ”ではない。特別な場所ではなく、どこにでもある風景として描かれることですずさんたちと日々をリアルタイムに過ごすことになる。

 18歳で広島から呉へ嫁ぐすずさんは、子どもと大人との境目にいる。義姉・径子さんの娘・晴美ちゃんと友だちのように仲良くできるのに、まだお父さんからお小遣いを貰うのに、周作さんと初夜を迎えてキスを交わしている。
一つだけ花びらの色の違うたんぽぽのように、遠くから風に流されて運ばれてきた。段々畑に咲く黄色いたんぽぽはすずさんそのもので、周作さんが摘もうとすると「遠くから来とってかも知れんし」と止める。そんな喜びも悲しみも背負いながら大人になることを余儀なくされる彼女が、ふと子どもに戻る瞬間がある。それは《走る》時だ。

 草津の親戚の家に向かう時。妹・すみちゃんと仲良く一緒に通学する時。「ただいま~」と家に帰る時。「コクバ拾うてくるわ~」と山に向かう時。幼少期の故郷・江波でのすずさんの移動手段は、決まって《走る》のだ。
 大人になってからのすずさんは二度走る。一つ目は、リンさんと出会って親戚の家に置いたスイカを思い出した時。少し微笑んで、下駄を鳴らしながら三ツ蔵の前を駆け走る。二つ目は、自分の居場所が分からなくなった時。故郷に想いを馳せるように、耐え切れない切迫感の中で白い鷺を走って追いかける。

 つまり、すずさんにとって《走る》行為は幼少期の記憶を辿るものだ。

 白い鷺とすずさんの足元を共に映す。鷺は故郷の象徴なのだろう。「そっちへ逃げ!」と走り出すと、「ただいま~」と実家に帰ったあの頃の主観映像に切り替わる。脇に海苔が並べられて、空に鷺がたくさん飛んでいるあの頃の風景が。

 ここに来なければ、こんなに苦しむことはなかったのだろうか。あんな出来事も起きなかったかも知れない。でも、ここで暮らし続けなきゃいけない。その葛藤を《走る》という行為で表す。それが観る者それぞれの故郷を思い浮かばせ、胸に迫る名シーンとして映し出される。

■想像には願望が込められている。

 本作はすずさんが知り得ない情報は映らない。
“片隅”を徹底しているからこそ、主観の風景に臨場感がある。その先を描く時は、決まってすずさんの描く絵に切り変わる。描かれるものが事実かどうかなんて分からない。だが、そこには彼女の想いが必ず詰まっているのだ。
想像といっても種類がある。本作が行うのは無いものをイメージすることではなく、《そこにいる誰かの想いを汲み取る》ということだ。

 転覆事故で兄を亡くした水原さんは「海は嫌いじゃ」と言いながら、自由画の授業で海を眺める景色の前に座り込む。どんな想いで白波を見つめていたのだろうか。本作は誰かの喜怒哀楽を想像させるシーンが多々ある。

 水原さんが入湯上陸ですずさんのもとに訪れた際、なぜ周作さんはすずさんが水原さんのいる納屋に向かう時に玄関の鍵を閉めたのか。
 水原さんが、今までに見たことのないすずさんの表情を引き出した。絵描きが趣味であることさえ全然知らなかった。自分がすずさんの自由を抑えてしまったのではないか。解放させるつもりだったのか、鍵を閉めることで逆にすずさんから選択する自由を奪ってしまう。
 納屋の片隅には、よく見るとギターが置かれている。本作の裏設定で周作さんはかつてギターが趣味だったという。だが、開戦を迎えたことで控えてしまった。嫁いだすずさんの絵とまるで同じように、趣味を抑えてしまう。
 そうなると、納屋という空間は《抑圧》のシンボルとして受け取れる。遠くからやって来た黄色いたんぽぽを摘もうとした罪悪感からか、自分も知らぬ間に抑えつける側の人間になった気がしたのだろうか。

 それらの想像に正解なんて要らない。徹底した時代考証をなぞりながら、観る人それぞれが登場人物へ想いを募らせることで何万通りの作品の輪郭が作られるからだ。
 ある出来事を境にすずさんの独白のナレーションが多くなる。だが、落ちた焼夷弾を見つめる彼女の表情には言葉が乗せられていない。そこに生きる人たちが何を思って、何を考えているか。想像の余白が用意されているからこそ誰かの喜びを知り、痛みに気付く。大それた「世界平和」なんて言葉を使わずとも、爆弾が降らない平穏な日常が、水原さんが願う“普通”が、そこから始まる気がしてならない。

 布団に横たわるすみちゃんが、いつの間にか姿を消した知多さんが、その後どのように暮らしたのか。原爆投下後の広島に足を踏み入れることで生じる《入市被爆》の恐ろしさが、ここでさりげなく描かれる。
 登場人物たちのその後の想像はすずさんではなく、客席にいる我々に託されているように思う。
どうか無事でありますように。元気に暮らしていますように。物語の外にいるというのに、まるで古くからの友人のように登場人物たちを想ってしまう。想像には決まって願望が入り混じる。すずさんが描く戦場に赴いた兄・要一が主人公の漫画『鬼イチャン』も、座敷わらしのこれまでとこれからの絵も、想像の中から彼女の切実な想いが伝わる。

 今でもすずさんとすみちゃんが90代のおばあちゃん同士で、仲良く笑い合っていてほしい。あの頃走っていた二人が、今は呉の街中をのんびりと歩いていてほしい。
 そう願った瞬間、もはやフィクションに思えなくなる。作品に触れてから、すずさんの半生を辿るために広島、江波、呉の街を歩いた。そこではアニメ作品の聖地巡礼というより、親しい人の故郷を巡っているかのような気分にさせられた。

■「うちも強うなりたいよ。優しゅうしぶとうなりたいよ。この街の人らみたいに。」

 いつか皆一人残らず居なくなってしまう。跡形もなく消えてしまう。エンドロールの終盤に描かれるのは、消える姿と残る姿。そして、最後に映るもの。それらは一体何を意味するのか。
「人が居なくなっても、作品は残り続ける。」そのようなメッセージとして受け取ると、すずさんの失くしたものと作り手の意志が被る。

 原爆で亡くなった中島本町の住人や、防空壕で生き埋めになった呉駅前で行進する女学生など、当時そこで暮らしていた人々が描き込まれる。当時を知るあらゆる方々の証言をもとに、様々な記憶を封じ込めている。そこにすずさんという架空のキャラクターが生き続ける。作り手の想像にはすずさんの想像と同じように、強い想いが込められているようにしか思えない。
だから、この作品は残り続けないといけない。100年以上、ずっと語り継がれてほしい。当時の暮らしを体験できるタイムマシーンであるからこそ、タイムカプセルであってもらいたい。記憶から想像へ、想像から未来へ。心の片隅にそっとしまい込んで、いつまでも思い出の写真アルバムのようにたまに取り出して笑ったりしたい。

 登場人物たちに“さん”などと敬称を付けてしまうのは、まるで彼女らが実在しているように思えるからだ。
のんがすずさんに息吹をもたらす。細かな息遣い、深いため息、大きな叫びまで、喜怒哀楽の4つに収まらないあらゆる感情が隅々まで行き届く。すずさんと同じく絵を描くのが好きで、普段からぼうっとしていても芯が強く、失われた日常を取り戻していく。これも『この世界』が今生きているこの世界と地続きである証拠の一つだろう。

 すずさんがユーカリの木に登る。そこに広島から飛んできた障子が落ちていることに気が付く。大切なものを失い、想像する器が無くなってしまった。そんな彼女の故郷での思い出が、障子の失くした紙に一枚一枚映し出される。そして、彼女は近所の人たちに摘んだユーカリの葉を分け与える。

「うちも強うなりたいよ。優しゅうしぶとうなりたいよ。この街の人らみたいに。」

 ユーカリの花言葉は『新生・再生・思い出』である。爆弾で焼かれた障子の紙が、この作品によって再生する。その一枚一枚が、誰かの物語なのにまるで自分の思い出のように残り続ける。やがて新しい時代へと、この作品が記憶を繋げていくに違いない。
 それもすずさんの言葉の通り、強く、優しく、しぶとく。悲しくてやりきれなくても歩き続け、時には走り出し、立ち止まる。それを観る我々も、きっとその一部になるだろう。
(文・竹内道宏)



『この世界の片隅に』
(ストーリー)
広島・江波で暮らす18歳の浦野すず(声:のん)に、突然縁談が持ちかけられる。普段からぼうっとしている彼女は良いか悪いか判断がつかないまま、軍港の街・呉で暮らす海軍勤務の文官・北條周作(声:細谷佳正)のもとへと嫁ぎ、新天地での生活が始まる。
周作の父・円太郎(声:牛山茂)と母・サン(声:新谷真弓)は優しいが、義姉の径子(声:尾身美詞)は厳しくてキツく当たってくる。その娘・晴美(声:稲葉菜月)はおっとりして人懐っこく、すずは晴美と友達のように仲良くなっていく。
戦争が激化する中で配給物資が減っていくが、すずは明るさを失わずに呉での生活に馴染み、暮らし続ける。だが、やがて呉が空を埋め尽くすほどの数の艦載機の空襲にさらされ、すずたちが大切にしていたものが失われていくーー。

(スタッフ/キャスト)
監督・脚本:片渕須直
原作:こうの史代
音楽:コトリンゴ
キャスト:のん(本名・能年玲奈)、細谷佳正、尾身美詞、小野大輔、潘めぐみ、岩井七世、稲葉菜月、新谷真弓、牛山茂、澁谷天外 他
配給:東京テアトル
2016年/日本映画/126分
(c)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会



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竹内 道宏(a.k.a. たけうちんぐ)ライター/映像作家
監督・脚本を務めた映画『新しい戦争を始めよう』『世界の終わりのいずこねこ』『イカれてイル?』がそれぞれDVD発売中。最新作は難病を抱えたVJ・NAKAICHIを追ったドキュメンタリー作品『SAVE』。また、神聖かまってちゃん等の映像カメラマンとしておよそ700本に及ぶライブ映像をYouTubeにアップロードする活動を行なっている。
『おたぽる』ではBABYMETALのメンバー・YUIMETALを追った『BABYMETALの“メタルレジスタンス”を追う』を連載中です。
たけうちんぐダイアリー(ブログ)→http://takeuching.blogspot.jp
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