実は「RETAS」ユーザー! 山村浩二のアニメーション制作は『もーれつア太郎』がキッカケ【前編】

 イシュ・パテルは翌年の『ぴあフィルムフェスティバル』にも招待されていて、ワークショップが1日ありました。たまたま前年見た『死後の世界』に影響を受けて作った『博物誌』を、翌年本人に見てもらうというタイミングが続いたのもあって、今に至る感じです。ワークショップで作品の素材などを目の当たりにして面白いなぁと思って」

 当時は「アニメーション研究会連合」や「アニメーション80」といった自主上映会も増えてきた時期。日本SF大会のオープニングなどで話題をさらった「DAICON FILM」がガイナックスを設立、といった出来事もあった。

山村「東京に来た環境もあって大学生で時間もあったんで、それまで好きだった映画も大量に見て、短編アニメーションなど普段目にすることのないフィルムもANIDOなどの小さい上映会で見ていました。『アニメーション80』に参加するのは、広島の後で、学生の時は遠い存在でした。このほか自主上映会は『グループえびせん』や『地球クラブ』もあったんですけど、えびせんはメンバーの石田卓也さんと仲良くなって、2011年に亡くなった片山(雅博)さんの強い誘いでいつのまにか上映に参加していました」

■実は「RETAS」ユーザー! 『バベルの本』から制作にデジタルを本格導入

yamamura03.jpgムクオスタジオ公式サイトより

 在学中はアルバイトで映画美術の仕事を2年続け、卒業後はムクオスタジオに美術スタッフとして2年間在籍した。

山村「10代の時にNFBのフィルムを見ていたとはいえ、アニメーション作家になる選択肢はなかったです。大学の時に絵画科では『なぜ絵を描くか』という問い、創作の意味みたいなのを突きつけられて、趣味としか思ってなかったものに対してどう考えていったらいいのかを悩み始めた時期でもありました。

 アニメーションは、食べていく仕事と関係なく作っていたいと思っていました。在学中にバイトで映画美術の特殊造形やメイクアップの仕事をしていたので、フリーでも仕事が来ていて、卒業後はそのまま映画のスタッフになりそうでした。映画の世界も面白かったんですけど、そのままでは自分の創作とは違う方向だと思い、一度就職して距離を取ろうと思ったわけです。ただ別に商業アニメーションには興味がなかったですし、ましてアニメーターは、独特のクセが自分の作品についてしまうのを考えると、選択肢にはなかったです。

 スタジオに勤めながらも『ひゃっかずかん』をフィルムで作ってました。休みが日曜日しかなくて、平日も10時間は働いてましたけど。帰ってから夜遅くまで作画して、日曜日に撮影、月曜日に朝一で現像所に持ってって、13分の作品を足掛け2年で作りました。『アニメーション80』での上映活動もあって、自分の意識の中では作家を続けていくというのがありましたから。スタジオに籍を置きながらも自分の作品を外に向けて作ることを続けながら、いざ辞めてからは『これからどうやって食べてくんだ』と漠然と不安に襲われましたが」

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