【連載】誰も語らないパチンコの中の“アニメ” 第3回

ケンシロウの遠足を眺めるだけ!? 『北斗の拳』シリーズが見せたパチンコの“進化の可能性”と“限界”

 本連載の第1回(参照)で触れたとおり、パチスロ・パチンコ……とりわけパチンコは物語の再現に向かない機械だ。過去の演出と今の演出、そして未来の演出に基本的に因果関係が成立しないので、過去から未来へ進んでいく物語コンテンツを再現するには都合が悪いのだ。

 だから、パチンコでは、クライマックスの物語をリーチという形で使い、そのほかの通常時は主に「日常」的なパートを描くことが多い。

 だが、『北斗の拳』はこのパチンコの基本構造と相性が悪かった。原作の『北斗の拳』は、いわばバトルに次ぐバトルの物語だ。ほとんど常時誰かと戦っているといっていい。だから、いわゆる「日常」にあたるパートが極めて少ないのだ。

 パチスロでは、ゲームの性質上それほど大きな問題にならなかったが、その演出をほぼそのまま継承したパチンコ『CR北斗の拳』は、このミスマッチがもろに出てしまった。リーチ時や大当たり時のバトル演出はいいのだが、通常時のこの台では、世紀末の荒野をケンシロウが歩いているだけだった。たまに飛んでくる矢を受け止めたり、バットがすっころぶ姿を見せられたり、レイが意味ありげな動きをしたりするものの、基本的には敵と遭遇するまで歩き続けるだけだった。3時間遊んでも、2時間はケンシロウの遠足を眺めているだけだったといってもいい。

 こうした演出はシリーズを重ねる中で徐々に改善されていき、現在のシリーズでは演出も洗練されているが、『北斗の拳』とバトルタイプ演出という組み合わせの本質的限界は、『CR北斗の拳』で示されており、変わっていない。バトルマンガだからこそできたゲーム的進化だが、純粋なバトルマンガだからこそ平常時の物語性は低くなり、ゲーム的だからこそ生まれた多様な分岐による興奮は、映画的な原典再現という要素を弱めている。

 00年代のアニメ・マンガパチンコにおける双璧というべき『エヴァンゲリオン』と『北斗の拳』は、パチンコの進化の方向性に“映画的”か“ゲーム的”かという選択を突きつけたといえるだろう。
(文/小林聖)

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