“Animation”で世界と渡り合う水江未来、国際映画祭デビュー10周年!インタビュー【前編】

■恩師や大御所との出会いから本格的な制作へ

 グラフでアニメーション制作のカリキュラムが始まったのは1998年からで、同年より教鞭を執った故・片山雅博教授の存在が大きかった。同年に文化庁メディア芸術祭が始まるなど、当時のCGブームなどを背景とした自主制作・個人制作への注目もあった(参照:ロマのフ比嘉さんインタビュー)。2000年よりNHKが『デジタル・スタジアム』、TBSが「The DigiCon」(現:DigiCon6 ASIA)、ラピュタ阿佐ヶ谷が「ラピュタアニメーションフェスティバル」、02年より「東京国際アニメフェア」が開始されるなど、国内の映画祭・コンテスト・見本市が続々と誕生する機運も生まれていた。

 また02年からは「ICAF」(インターカレッジアニメーションフェスティバル)が始まった。ICAFはその名の通り、参加校の推薦アニメーション作品が集う場である。そして03年には東京工芸大学にアニメーション学科、東京造形大学にアニメーション専攻が設立と、大学でのアニメーション教育が本格的に幕を上げることになった。つまりグラフが、今ある学生によるアニメーション制作の下地を構築したと言っても過言ではない。

水江「大学1年の時に新宿でフラっと降りて、あまり見たことない映画を見て帰ろうかなと新宿武蔵野館に入ったら、ヤン・シュヴァンクマイエルさんの『タッチ&イマジネーション』っていう短編アニメーション集をやってました。昔大好きだった特撮映画を思い出し、実写の中に異質なものとして存在するコマ撮りされたオブジェクトが気持ちよくてハマったんですね。自分が知識がないまま大学に入っちゃったのもあって、とにかくそういうシネコンでやるのじゃない映画を見てインプットしなきゃと思ってた時期です。だから1年の時はアニメーションを作るというよりも、学校でカメラを借りてコマ撮りで特撮を作ることをやってました。

 2年次からアニメーションの授業があるんですけど、まだ作品として完成させる前で、1年の時には玄光社の雑誌『イラストレーション』のザ・チョイス【註:同誌の公募枠】とか、イラストのコンテストに出してました。自分で作ったものは、とりあえず出すみたいな感じです。アニメーションは大学院まで5年間やってた感じですね。ただ2年生の時は、そんなにアニメーションの授業がなくて、前期に1カ月、後期に1カ月と、ワークショップ的に短く動かしてみようって、ちょっとソフトの使い方を教えてもらってやりました。細胞のイラストは1年生の時から既に描いてたんで、それを試しに動かそうと思いました」

 かつて水江さんもそうだったが、ゼロ年代前半までの当時、グラフの作品は『ユーロボーイズ』がセンセーショナルだったAC部などが「After Effects」を使っていた一方でAbobe(旧:Macromedia)のソフト「Director」で制作されたものが多かった。水江さんのグラフの同期には、近年きゃりーぱみゅぱみゅのMV制作で知られるようになった映像ディレクター・田向潤さんもいた。なお序文で記した加藤久仁生さんは、グラフの先輩に当たる。

水江「ちょうど加藤さんの卒業と入れ替わりで、僕が入学したことになりますね。3年生は通年でアニメーションの授業があるんで、そこで加藤さんを知りました。「shockwave.com」【註:Shockwaveプラグインを使ったゲームやアニメーションを公開していたサイト。現在は閉鎖】で加藤さんの『或る旅人の日記』を配信してた時期で、卒業して頑張っている先輩がいると片山先生から紹介があったからです。あの時期は加藤さんの他には、『摩訶不思議』や『フィッシャーマン』などの坂本サクさんと『電車かもしれない』などの近藤聡乃さんが代表的な卒業生として紹介されてました【註:『電車かもしれない』については、当時グラフでは「私の好きな歌」でアニメーションを作るという課題があった。既存音源という規定はないが、結果的に既存音源を使う学生が多かった】」

 最近では、坂本さんは松山市をPRする短編『マッツとヤンマとモブリさん』の監督など、近藤さんはエンターブレインのマンガ雑誌「Fellows!」にて『うさぎのヨシオ』のマンガ連載などで活躍している。

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