登戸殺傷事件で犠牲者を悼むことなく、弄ぶオタクと政治家の共犯関係

 1960年代から、それまでの映画に代わって映像メディアの中心になったテレビは極めて革新的なメディアであった。映画は視聴者の側が映画館へ足を運ばなければ観ることはできない。ところが、テレビは違う。スイッチをオンにすれば一方的に映像が飛び込んでくる。スイッチを切るかチャンネルを回さないかぎり視聴者に選択の余地は与えない。出かけなくても待っていなくても、リアルタイムな日常が一方的に飛び込んでくるのが、テレビである。

 このことを象徴するのは、1972年6月17日に退任を表明した佐藤栄作首相の記者会見である。記者会見場に姿を現した佐藤首相は「テレビはなんでそんなスミにいるんだ。もっと真中に出なさい、真中へ」「私はテレビと話したい。国民と直接話したいんだ」と発言。「テレビと新聞を差別するような発言をされたがわれわれは許すことができない」と抗議する記者クラブの幹事社と言葉の応酬の末に佐藤首相は「新聞の人はみんな外に出て下さい、構わない」と言いだし、多くの記者が退席し空席だらけの部屋でテレビカメラに向かって話すという異様な記者会見となった。

 これがテレビのひとつの方向性を決めたといえるだろう。それまで、まだ混沌としたテレビという新たなメディアでなにができるかを模索する動きはあった。テレビマンユニオンを興した萩元晴彦・村木良彦・今野勉が共同で記した『お前はただの現在にすぎない テレビにはなにが可能か』(1969年 田畑書店)の後半では、「テレビにはなにが可能か」の問いが何度も繰り返され、それに対する様々な回答が綴られていく。しかし、その問いは忘却され、テレビは次第に日常を垂れ流すメディアへとなり革新性を失った。

『お前はただの現在にすぎない テレビにはなにが可能か』(1969年 田畑書店)

 昨年9月に地方局である東海テレビが開局60周年記念番組として制作したドキュメンタリー『さよならテレビ』は、業界内外で話題になっている。ぼくは1月に鑑賞する機会があった。東京大学でテレビを研究する丹羽美之教授の研究室と日本マス・コミュニケーション学会の共催による上映会があったのである。いずれ数年のうちに劇場公開されると思うので、作品評はまたの機会としてこの時にあったことに触れておこう。

 作中で取材される局内の面々の中に、人はよさそうだけどミスが多くて怒られてばかりの記者が登場する。その彼にカメラが向けられた時に会場で起こったのは、クスクスではないドッと音がする見下したような笑いであった。それは果たして、天下の東京大学という場でまだ一般には観ることのできないドキュメンタリーを観賞している、観客の思い上がったインテリ意識の為せるわざなのか。あるいは、カメラを向けるディレクターの内心の照射なのか。その答えはまだ出ない。

 ただ、そんな実情へと思いを馳せることなく「テレビとゲーム機」をネタに「オタクが〜」という人々は、どれだけ世の中を見下しているのだろうと思うのだ。

 いや、きっとこんなことを考えている、ぼくのほうがどうかしているんだ。なぜか気の合って半年に一度は酒を酌み交わすテレビ記者に、ぼくは宴の半ばでいつも「テレビにはなにが可能か」と問いかける。そして、こう返される。

「昼間さん、そんな本……もう誰も読んでませんよ」

(文=昼間 たかし)   

登戸殺傷事件で犠牲者を悼むことなく、弄ぶオタクと政治家の共犯関係のページです。おたぽるは、その他ホビーの最新ニュースをファンにいち早くお届けします。オタクに“なるほど”面白いおたぽる!

- -

人気記事ランキング

XLサイズ……
XLサイズって想像できないだけど!!