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【秘録的中編ルポルタージュ】

初単行本『ボコボコりんっ!』女性マンガ家・知るかバカうどんの衝撃と圧倒「私、つきあった男には必ずボコられるんです」

2016.09.01

 実にその通りであった。取材の時、知るかバカうどんの口から紡ぎだされる予想外の言葉に驚き興奮した。しかし、その時の私はなおも珍奇なものを見物するような立ち位置にいたのだ。取材の後半になり、知るかバカうどんの創作への真摯な態度。とりわけ「コマの枠線をひいている時は楽しいですね」という言葉を聞いた時に、私の本能的な部分が、心得違いをしていることを告げていたのだ。居心地の悪さの正体は、それだった。

 ルポライターという職業は、底辺のさらなる先。もっとも下から世の中を見上げ、そこに生きる無数の人々に寄り添い、自らの視点で文章を生み出していく職業である。学者や批評家と呼ばれる連中が、マクロの視点と呼ぶようなもの。すなわち、世間のすべてをわかったようなフリをして、客観という名の神の目線から社会を切り取ろうとするのとは、まったく違う。野良犬のように這いつくばって、必死に取材対象へとしがみつくことを矜恃とする。しかし、今回の取材の中で、私はどこかで、その基本を忘れていた。『ボコボコりんっ!』という作品から得た「衝撃」に、自分が突き動かされ、得体の知れぬものに「圧倒」されるのを恐れていた。それゆえに、どこか博物館や見世物小屋に並べられたものを見るような態度で、取材の現場へと足を運んでしまったのである。

 もしも、ウケ狙いで作品を描いてたり、自己演出に長けたマンガ家がやってきたのならば、それでも取材は楽しく充実して終わったであろう。でも、そうはならなかった。知るかバカうどんというマンガ家は、私の予想を遙かに超えて率直で、マンガに対して真摯な人物であった。何よりも、自らの体験を昇華して作品へと落とし込むことのできる「私」を持っていた。

 知るかバカうどんという人物を十分に捉えることができるか否か以前の問題だった。私自身が、取材の中で全力でぶつかってきた彼女を受け止めきれていなかったのである。

 そのことを消化して血肉にして、改めてルポルタージュという「作品」として仕上げて、応えなければならないと思った。

 けれども、すぐに執筆に取りかかることはできなかった。ちょうど参院選も佳境に入っていた。私は、7月のもうひとつの重要な取材を抱えていた。「表現の自由を守る」という旗を掲げて参議院選挙に出馬していた、山田太郎の取材に多くの時間を割かなくてはならなかったのだ。エロマンガと参院選。一見、まったく無関係に見えるテーマである。だが、それは表現することの意味を考える機会を与えてくれる点では、極めて密接な関係にあった。その取材の合間にも、私は自由な表現の意味を考え、もう一度取材テープをもとに、知るかバカうどんという作家を捉え直そうと思った。

 知るかバカうどんについて、もっと知りたい。むき身の姿を、もっと見る方法は何かないかと考えた。妙案が浮かばないまま、ふと思いついて、彼女のpixivにマイピク申請を送ってみた。私はpixivを手慰みに書いた創作をこっそりと晒す場として使っている。アカウント名は「昼間たかし」とは誰も気づかないものにしている。だから、あくまで第三者の視点で、まだ知らないことを知ることができるかもしれないと漠然と考えていた。

 すると、すぐに返事が来た。

「昼間さん、お疲れ様です」と。

 プロフィールのどこにも私とイコールになる情報は記していないのに、なぜかバレた。なんたる感性。この時点で、知るかバカうどんは、決して掴みきることのできないマンガ家なのだと観念した。そして、自分を恥じた。

 返事の中で、知るかバカうどんは、私にひとつの依頼ごとを記していた。取材の中で、私が最近は商業原稿の息抜きに『艦これ』のSS(註:サイドストーリーまたはショートストーリーの略。主にファンによる非公式の二次創作小説を指す。平易な創作の方法であり、インターネット上の掲示板などを用いて多くの作品が発表されている)などを書いていることを話していた。それがどうしても読みたいというものであった。

 それは今年の春頃に、ふと思いついたアイデアを忘れないうちに書き留めておこうと、pixivとは別のサイトに投稿してみたものだった。少しばかり、どうしようかと考えあぐねた。確実に「キモい」と思われるだろうという不安が、私の頭の中をよぎったからである。この後に及んでも、私は知るかバカうどんに対して、何かしらの飾った自分を見せようとしていたのである。相手は、取材の時になんら飾るところのない自分を見せてきたのにもかかわらずである。考えた挙げ句に、自分でも読み直したらクソな内容だと予防線を張る文章を記して送った。

 2日ほど経って、返事がなかったので不安になり《おそらくキモいと思うので、キモいといって下さい》とメールを認めて送った。

 長文の返事が返ってきた。まだ読んでいる途中である旨と、これでもかと驚くほどの絶賛の言葉が記されていた。気を遣われているのではないかと、二度三度読み直して、ようやく言葉通りに受け止めてもよいのだと理解し、その言葉を喜んだ。

 また2日ほど間が空いて、読み終えた報告と共に感想が長く丁寧に綴られた返事が来た。感想のあとに、このように綴られていた。

《私は頭が悪いので自分の事カッコよく話したりどうでもいいことものすごく凄いことかのように話したりするのがとてもとても下手くそなのと漫画家になる前は嘘で塗り固めて生きてきたのでネットや漫画や知るかバカうどんではあんまり嘘吐きたくないなと思っています。

 あと、本もぼちぼち読むのですがかっこいい単語や漢字を覚えても会話に込めて話せる脳みそが無いです。なので漫画も会話してるようなセリフで名言言わせれない感じになってしまってます…!

 私は私のこと好きじゃないし褒められたりするのはありえ無いと思ってます。

 昼間さんが言う圧倒というのも自分じゃよくわから無いので記事を読んだ時に何か自分が自分の事気付けれたらいいなと思います。》

 読んで身体が震えた。いかにも人生の只中で、目指すものを見つけた幸福感に満ちている姿は美しく神々しい。それは、文章の端々から伝わってきて、ひれ伏したくなるほどだったのだ。

 そして、海のものとも山のものともつかない、駄菓子のような自分の記事にも期待をしてくれていることを嬉しく思った。

 この一文によって、私はようやく知るかバカうどんというマンガ家を少しだけでも捉えることができたような気がした。ようやく、何かが書ける。いや、書かなくてならない気持ちになった。テクノロジーの発展と共に、人間関係が分断されている感覚は確かにある。メールやLINEなどを使って、いつでも誰とでも連絡を取ることができるようになった。その一方で、相手の生を感じる触れ合いは減った。電話で話をすることも、ここ10年で格段に減っている。ましてや、会社でも個人でもアポなしで訪問するのは、単にマナーのない人と見られるようになってしまった。知るかバカうどんは、そんな荒涼としたインターネットの世界に足を踏み入れ、そこで溶け合うような人間関係をつくり「私」を確立するに至ったのだろうか。そのいまだに、捉えきれないものを読者へと示していくためには、いかに文章を工夫しても、ありきたりなの形では物足りないと思った。その圧倒的な生命力を記していくには、書き手が自分をもさらけ出すことで対象を描こうともがく過程を克明に記すことができるルポルタージュの方法論がもっとも相応しいという答えにたどり着いたのである。

 冒頭に記した、最初の電話の時に森田は「こういう作品も世に送り出せるのが表現の自由」だといった。私はこれが「表現の自由」だとは思わない。なぜなら、そのような法律の文言のような小さなカテゴリーの中に、知るかバカうどんを配置することなどできないからだ。その作品と人とを通じて浮かび上がってくるのは、いかなる法律や体制の下にあっても人間が本来持ってきた、「自由になろうとする自由」の叫びなのである。

 そんな創作の修羅の中に身を投じた知るかバカうどんは「一旗挙げたい」と上京し、さらなる地獄への道筋へと進もうとしている。その中で、火の酒のように透明に激しく燃えている美しさを描き出すには、まだ私の力量は足りなかった。このように清潔な「心」の持ち主を、いまだ私は知り得なかったのだ。

 こうして2週間ばかりを費やして書いてみた原稿がどうなるのか、私もよくわからない。長くてもせいぜいが5,000文字程度のニュースサイトに、こんな長大な原稿が掲載されるのだろうか。あまつさえ、原稿料と天秤にかけたら、まったく割に合う仕事ではないのはわかっている。どこの誰がきちんと目を通してくれるかは、わからない。けれども、私は書かずにはおれなかったのだ。自らの恥ずべき取材姿勢への自省のため。そして、さらなるルポルタージュを書く道を進むために。これから、いかに輝いていくかもわからぬ一人のマンガ家のために、せめて無味乾燥ではないものを贈りたいと思った。それが、ルポライターと記された名刺を持つ私にできる、ただ一つのことだと思ったのだ。

 この原稿を書いている最中にも、出会った人やネットで拾った描き込みなどで、多くの人々の知るかバカうどん作品に対する想いを知った。その中で、読者の間では「知るかバカうどんファンは漫画を通して知るかバカうどんでシコってる」説なるものがあることも知った。

 まったく、その通りだと思う。知るかバカうどんは、作品を通じて読者に対しても常に自分のすべてをさらけ出し、ゲロや糞便のような醜い部分まで理解し溶け合うことを、まったく躊躇せずに求めているのだ。知るかバカうどんにとって、マンガ家とは職業ではなく生き様である。それゆえに、すべての作品には彼女の生命のすべてが注ぎ込まれている。彼女の人生の体験に裏打ちされた「実録」の側面を持つ作品。ともすれば実録マンガは、量産されるコンビニコミックに掲載される裏モノ的なマンガや、本当にあった○○な話系のマンガになる。そうならないのは、作品の中に常に知るかバカうどん自身が描かれ続けていることに尽きる。そう、知るかバカうどんは、絵を褒められ、職業としてのマンガ家になろうとしたのではない。彼女の生き様がマンガ家なのだ。

 私が取材を通じて「圧倒」され、「動揺」してしまったものの正体は、まさにこれであった。

 知るかバカうどんは、いわば一糸もまとわず。それどころか、内蔵も老廃物も、過去も未来もすべてを晒す全裸以上のものになって、取材者である私の前に姿を現したのだ。その時に、私がしなければならないのは、同じような姿になってドロドロに交じり合うことであった。その性行為以上の何かへと達するまたとない機会を得ながら、私は恐れてしまったのだ。相手が全裸かそれ以上の何かで求めているのに、こちらは服を着たまま逡巡としている。それは、とてつもなく無様で失礼なことだったと気づいた時。私は、恥じ入るしかなかったのだ。

 ここまで幾度も使ってきた「衝撃」だとかなんだとかいう言葉も所詮は、そうした自らの恥を隠すための言い訳に過ぎなかったのだ。

 その後悔を、私は私自身の生き様であるルポルタージュとして示し、挽回せねばならぬと思った。ネットのニュースサイトの記事のはずが、こんな長大な原稿を書いてしまったことを、人は馬鹿だというかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 こうして原稿がまとまった晩夏の夜。このルポルタージュの書き手である私と、その取材対象である知るかバカうどんの関係性は、この先どこへ向かうのだろうかと漠然と考えた。

 果たして、性差や年齢・職業歴といった大きな隔たりを越えて、異端の地平を目指す良き理解者としての深い信頼関係を築き、その先にある表現者としての自立が果たせるのだろうか、と。
(文=昼間たかし)

MediaxAdult『ボコボコりんっ!』

http://www.mediax-co.com/mediax_2013/comics/?p=1095

●知るかバカうどん(しるかばかうどん)
Twitter https://twitter.com/meromeroudon
pixiv http://www.pixiv.net/member.php?id=137649

●昼間たかし(ひるまたかし)

ルポライター。昭和50年、岡山県生まれ。言論・表現の自由、地方の文化や忘れられた歴史などテーマに取材する。近著に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)、『これでいいのか東京都大田区』(共著、マイクロマガジン社)。

公式サイト http://t-hiruma.jp/

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