国家に褒められることの無価値さ 文化庁メディア芸術祭に見る“終わりのはじまり”

2014.12.09

 11月28日、今年で18回目になる文化庁メディア芸術祭の受賞作が決定した。本年のマンガ部門にて『五色の舟』(原作:津原 泰水/KADOKAWA)で大賞を受賞した近藤ようこ氏の作品も、『アオイホノオ』(小学館)で優秀賞を受賞した島本和彦氏の作品も、多くを読んでいる筆者としてはとても喜ばしい。なによりマンガ部門の審査委員として参加しているマンガ家・すがやみつる氏の『ゲームセンターあらし』には今でも影響を受けていて、ゲームをプレイして行き詰まった時には水魚のポーズは欠かせない。

 さて、毎年受賞作が決定するたびに賞讃の言葉のやまない文化庁メディア芸術祭だが、やはりぬぐえない不信感は存在する。2011年2月に開催された2010年度メディア芸術部門会議の報告書の中で、かつてアニメーション部門審査委員主査として3年同賞に携わった富野由悠季氏は、文化庁メディア芸術祭の企画展の中で村上隆氏と対談したことを取り上げ「国際的なアーティストと対談させてもらう機会が、ロボットのタイトルで作品をつくる私にもやってくるようになったということで、やはり大きな、プライドを裏付けてくれる出来事になりました」と述べているが、一方で「私の個人的な感覚で申し上げると、〈文化庁メディア芸術祭〉に対しては、国家が文化に手を出すというのはいかがなものか、しょせん統制するだけのことになるのではないかという思いは、今も変わらずにあります」とも述べている。

 国はクールジャパンを旗印にした産業政策を推し進めている。地方自治体でも、鳥取県が莫大な資金を投下する『まんが王国とっとり』のような行政が音頭を取る施策は次々と立ち上がっている。もはや、東京大学の「角川文化振興財団 メディア・コンテンツ研究寄付講座」のように、私企業の支援で研究を行う行為にも「産学協同路線」というような批判は聞こえてはこない。

 そうした中で、前述の富野氏のような発言は「古い考え」のように受け止められているだろう。

 けれども国家や行政機関による支援や協賛が、大衆文化に有益な作用を及ぼすかといえば、答えは「否」である。

 そのことは「伝統文化」の現在を見れば明らかである。室町時代における河原者によって生み出された能・狂言のような芸の世界、江戸時代の戯作の数々、そして、昭和の中頃まで命脈を保ち続けた門付けの芸の数々。多くの文化は時代の変化と共に変容を遂げていく。変容する中で、低俗なものであったはずの文化は祭りあげられ、時の支配者の遊び道具となった。今日「伝統文化」として残るものの多くが「ハイカルチャー」と認識され、それに親しむことがなにやらハイソな感覚を持つものとなっている。そこに民衆の文化としての姿はない。権力の保護を受け、伝統文化として祭りあげられる中で、本来あったであろう猥雑な部分は薄められ姿を消していったからである。

 2013年5月、クール・ジャパン推進機構の設立を前に『CNETJapan』のインタビューに答えた経済産業省商務情報政策局クリエイティブ産業課クール・ジャパン海外戦略室長補佐の小田切未来氏は、次のように答えている。

「日本のアニメには、(表現によっては)海外でポルノ同様に扱われることで、ビジネスチャンスの可能性が狭まるものもあったということを聞いたことがあります。そういった点も含めて基準を設けないといけないでしょう」

 別段、小田切氏も「だから規制しろ」と主張しているわけではない。国家という権力機構が関わるがゆえの限界を、ここでは示しているのである。過去の文化庁メディア芸術祭を見ても、ある程度妥当性のある作品が選ばれていると見える。この点で、文化庁メディア芸術祭はまた国家が行うがゆえの限界=選別と統制の装置の中に組み込まれたものといえる。

 文化庁メディア芸術祭に価値があるとすれば、大衆文化の価値とは民衆を笑わせ、泣かせ、読み捨てにされることであり、国家に賞されることなど価値がないことを知らしめることである。けれども、そうした読み捨てにされる文化を担う人々は黙して語らない。

 権力に賞されることは、文化としての“終わりのはじまり”ということを、我々は歴史から学ばなければならないだろう。
(文/昼間 たかし)

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