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Kindleでも読める30年前の名作プレイバック 第13回【前編】

『はだしのゲン』こそ“原爆を擬似的に体験できる装置”! 忘れないために書き留めらた真実とは

2014.07.05

 そんな『はだしのゲン』の原爆の破壊力はすさまじかったが、それにも負けず劣らず辛いのが、原爆投下後の冷淡な人間模様だ。

 ゲンと母と小さい妹友子は、迫害され、いじめられる。しかし生き残ったからには、どんな地獄だろうと生きていかなければならない。はだしのゲンの作中には、ゲンの父の言葉

「ふまれてもたくましく育つ、麦のようになれ」

というメッセージが繰り返される。

『はだしのゲン』は、壮絶なサバイバルの物語なのだ。

 家族すら近寄らない原爆症の画家志望生の面倒を見て金をもらい、進駐軍の駐屯地から命からがら食料を盗み、ぎりぎりのところを生きていく。

 余談だが、僕はルポライターとして、ホームレスの本を出している。その取材のため、全国のドヤ街(労働者のための簡易宿泊施設がある街)を何度も渡り歩いた。有名なところでは、大阪の西成(釜ヶ崎)、東京の山谷などだが、ある時名古屋のホームレスから、

「広島にもドヤ街はあるよ。名前はドンだ。ピカドンのドンからついた名前だって聞いたけどね?」

という話を聞いた。今から12年も前の話で、今ほどインターネットも充実していなかったからほとんど情報も集められず、確信もないまま現地に飛んだ。

 広島駅に着いて聴きこみをしたのだが、警察官も誰も、そもそもドヤ街があったことを知らなかった。仕方なく、片っ端から数十人に話を聞いてまわると、やっと話が通じるお婆さんが現れたが

「ドヤは300軒ほどあったけど、数年前に全部取り潰されてしまい、マンションになってしまった」

と言われてしまった。ちょっとガッカリしたのだが、

「戦後からずっと、ドヤ街の食堂をしていたお婆さんが今も生きているよ」

と教えてもらった。さっそく教えてもらった場所に行くと、ほんの小さな食堂があった。すでに営業も辞めているようだ。

 店内に入ると、齢80歳以上のお婆さんと、昔ながらの常連さんがいらっしゃった。お婆さんにゆっくりお話を伺った。

 原爆で吹き飛ばされた街には、すぐに人が集まってきて数日でドヤ街ができたそうだ。とにかく人手はいくらでも必要で、活気もあったという。原爆症もあったし、苦しんでいる人も多かったが、生きていくにはそれどころじゃなかった。とにかくドヤ街には、全国から人が集まってきたので、喧嘩も絶えなかった。

「とにかく関東の人が怖かった。荒っぽくてね。刃傷事件を起こすのはいつもあっちの人だったね」

と、広島ヤクザが大暴れする『仁義なき戦い』なんかとはちょっとイメージが違う話も耳にした。

 食料がない時代だったため、食堂で出す食材はアメリカ軍のゴミ箱から拾ってくることが多かったという。豚の頭などを、となりの韓国人のドヤの主から調理法を聞いて料理していたという。

 旦那さんが多額の借金を背負ったまま他界してしまい、その借金を返すために大変な苦労をしたという話も聞いた。

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