実は「RETAS」ユーザー! 山村浩二のアニメーション制作は『もーれつア太郎』がキッカケ【前編】
2015.10.09
85年、広島国際アニメーションフェスティバルが初開催。大学への進学も、広島との出会いにつながる。イシュ・パテルとの出会いも大きかった。
山村「広島を知ったのは大学2年ですね。造形大もアニメーション研究会があったんですが、IKIFの木船夫妻(木船徳光・石田園子)が先輩でノーマン・マクラーレンとか研究してたんですね。世間は『機動戦士ガンダム』とかなのに、マクラーレンとかコ・ホードマンの作品を見られる環境で、未知の世界があるなと。高校の先生の時にもジャック・ドルゥーアンの『心象風景』を見せてもらったりして、その流れで広島に行かなければいけないって感じだったんです。
第1回の審査員をしていたイシュ・パテルの回顧上映があって、『ビーズ・ゲーム』はアニメーション研究会で16ミリで見ていましたが、『パラダイス』までの7本くらいですか、1つ1つ衝撃的で、回顧上映というかたちで考え方の流れを知れたのが刺激になったのと、本人がその場にいたことですね。カナダのフィルムを借りて見たりしていても、現実にそこに作ってる人がいるって実感はなかなか湧かなかったんですけど、世界中から作家が来ていてイシュ・パテルもいたことで現実味を帯びたんですね。
その時自分もコンペティションに出してみようって思ったかまでは覚えていません。イシュ・パテルは作品ごとに技法もテーマも違うし、一見一貫性はないんですけど、独自の美学やこだわりみたいなのは見えて、それらを貫き通す創作の姿勢に共感して、自分でも何か作っていきたいと思いました。それですぐ、イシュ・パテルの『死後の世界』の粘土で絵を描く技法を見よう見まねで、『博物誌』を作ったんです。
『博物誌』(1985年)