薔薇族の人びと ~波賀九郎編 男が好きだから、男だけを撮っていた!

画像提供:伊藤文學

 1960年代を疾風のごとく駆け抜けた先妻の前衛舞踏家・伊藤君子(芸名・伊藤ミカ)が33歳という若さで事故死(1970年・1月11日)してから、早くも49年にもなる。

 ミカはフランスの地下文学の最高傑作と言われた『オー嬢の物語』(澁澤龍彦訳・河出書房新社刊)を邦千谷舞踊研究所から独立し「伊藤ミカ・ビザールバレエグループ」を結成して、舞踏化した。

 まったくの無名の新人なのに、訳者の澁澤龍彦さんの応援を得て、舞台美術を金子國義さん、宣伝美術を宇野亜喜良さんが担当してくれた。宇野さんが描き、デザインした『オー嬢の物語』のシルクスクリーンのポスターは、最高の出来ばえで話題になった。

 ふくろうの面は人形作家の四谷シモンさん、相手役は石井満隆さん。再演のとき麿赤兒さんも出演してくれた。

 その頃から波賀九郎さんは、ミカの写真を撮ってくれていた。波賀さんは前衛舞踏家の土方巽さんの写真を多く撮っていたがその時代の波賀さんとぼくは面識はなかった。

 下北沢と三軒茶屋を結ぶ茶沢通り(ぼくが駒大に通っていた時代はジャリ道だった)と淡島と梅が丘を結ぶ梅が丘通りの交叉する四つ角に「ハビテーション淀川」という5階建てのマンションが建った。

 1970年の11月に久美子と再婚したぼくらは、その南側の5階のワンルームを新居としていた。エレベーターがない5階だから、登ったり降りたりするのはかなりしんどかった。

 そのうちに久美子が妊娠、お腹が大きくなってくると、とても5階までの登り降りがきつい状態になってきた。北側だけど、たまたま2階の2LDKの部屋が空いたので、そこに移り住むことにした。

 『薔薇族』の創刊は1971年の7月だから、その部屋が『薔薇族』の誕生の地ということになる。

 茶沢通りに面した1階にカフェ「淀」もオープンした。マミちゃんというママがひとりで店をきりもりしていたが、マミちゃんのご主人はアメリカ軍の黒人の将校で、朝鮮戦争で戦死されていて、混血のひとり娘がいた。

 「淀」は『薔薇族』のお客さんの応接間がわりで、直木賞作家の胡桃沢耕史さん、男絵師の三島剛さん、後に『アドン』の編集長になった南定四郎さんなどと、ここで打ち合わせをしたものだ。

 『薔薇族』を創刊して1年近く経った頃だった。波賀九郎さんがひょっこり訪ねてきた。自らゲイだということを名乗ってだ。

 波賀さんの本名は中谷忠雄。没後2003年の4月、株式会社・心泉社から『土方巽の舞踏世界・中谷忠雄写真集』が刊行され、ぼくも刊行委員のひとりとして名を列ねている。

 土方巽さんの写真、ネガは早稲田大学図書館に寄贈されたと思う。種村季弘さんが序文の中で、こんなことを書かれている。

「中谷忠雄は芦川羊子や小林嵯峨のような土方巽門下の女性舞踏家以外には、おそらく女体は撮っていないはず。彼はすべて男性の、それも生活空間から隔絶した舞台の、または撮影セットの上での男性身体のみを対象にしていた。ということは、女性の生殖につながる連続性を拒否して、死の非連続性において完結する男性の肉体を専一に撮影したということになる」

 評論家の先生が難しく表現するとこういうことになるのだろうが、波賀九郎さんは女性が嫌いだから撮らない。男が好きで、それもサディストだから男の写真を撮っていたということだ。

 波賀さんの撮影現場を何度も見たが、いきなりモデルに口にふくんだ水をふきかけたり、アソコをぎゅうと握ったりもしていた。
(文=伊藤文學)

薔薇族の人びと ~波賀九郎編 男が好きだから、男だけを撮っていた!のページです。おたぽるは、人気連載書籍ホビーの最新ニュースをファンにいち早くお届けします。オタクに“なるほど”面白いおたぽる!

- -

人気記事ランキング

PICK UP ギャラリー
写真new
写真
写真
写真
写真
写真

ギャラリー一覧

XLサイズ……
XLサイズって想像できないだけど!!