薔薇族の人びと ~楯四郎さんの処女作を見つけ出していなかったら?

2020.01.09

画像提供:伊藤文學

 楯四郎さんの文章は、1970年代の時代の背景が浮かんでくるような名分だ。このあと楯さんにとって転機があった。アナウンサーの仕事とは関係のないことで……。

 楯四郎さんが裸電球の下に多くのエロ本と一緒に並べられていた、『薔薇族』の創刊号をちらっと見ただけで、お仲間の雑誌だと直感したのはなんだったのだろうか。創刊号の表紙絵を描き、デザインもした藤田竜君は、こんなことを書いている。

「ともかく表紙にホモだとか、男だとかということは何も書けないわけですよ。それでどうしたら読者にわからせることができるかというんで、あの図柄になってきたんです。
 下半身、裸でTシャツ一枚という。あの絵でどういう雑誌かというのは、ほとんどの人が分かったんですね」

 楯さんの文章の中に「上質の紙面に街灯の青白い光が落ちていた」とあるが、雑誌に上質紙を使うということは滅多にない。読み捨てなんだから、悪いザラ紙でもいいのだが、ぼくはこだわっていた。そうでなくても同性愛は異常で、薄汚いものと世間の人は思っていたし、ご当人たちもそう思いこんでいた時代だった。

 書店で買い求めても、家に持ち帰れない雑誌。そんな雑誌だけど、一瞬の間でも手にしたときに、美しさと、ほっとした気持ちを感じてほしい。そう思ってわざわざ上質紙を使ったのだ。その姿勢を35年間、貫き通したのである。

 創刊して1年、2年と経つと、文通欄に載せる読者の数も毎号増えてゆく。毎日、郵便局員がどかっと回送を依頼する手紙を置いてゆく。

 手紙の回送の仕事は女房がやってくれた。ぼくと結婚する前の若い頃、字を書くことが上手だったので、封筒の宛名書きをやっていたことがある。とにかく手紙の束を処理するのはプロの技だった。午前中、届けられた手紙の山を夕方までに宛名を書いて送るようにしてしまうのだ。小説、エッセイ、体験記なども山のように送られてくる。社員がいないのだから、とてもぼくひとりでは見きれるわけがない。

 その頃、33歳で事故死した先妻の舞踏家であり、世田谷区立の中学の保健、体育の教師だったミカの教え子だったO君が手伝いにきてくれていた。学習研究社の社員だったのをやめてまでして編集を手伝ってくれることになった。

 そのO君がある日、「伊藤さん、伊藤さん、すばらしい原稿を見付けた」と、目を輝かせて取り出したのが、楯四郎さんの処女作というべき「弁天小僧暗闇描画」という小説だった。O君がこの作品を発見していなかったならその後、続にと発表された楯四郎さんの名作は生まれてこなかったのだ。

 しかし、このO君、女好きの青年だから、やはり藤田竜君とは肌が合わなかった。藤田竜君のマンションを訪れたときに、なんでオカマという言葉で出てしまったのか分からないが、藤田竜君を怒らせてしまって、大変だったことがある。O君は居づらかったのか、いつの間にかやめてしまった。

 彼は優秀な青年だったから、その後自分で出版社を興して活躍しているようだった。もしかしたら投稿小説の山の中に、楯さんの他にも秀でた小説を書いていた人がいたかも知れない。
『薔薇族』は地方に住み、こつこつと同性愛をテーマにした小説を書いていた人たちの発表の場になっていたことは、間違いない。
(文=伊藤文學)

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