薔薇族の人びと ~楯四郎さん 新鮮な表紙絵の少年にひとめぼれして!

2019.12.30

資料提供:伊藤文學

 今の国会議員は戦後生まれの人たちだから、こんなことを知っている人はいないだろう。

 東京がアメリカのB29爆撃機による無差別爆撃によって焦土と化していた。

 終戦を迎えても帰るべき家もなく、また空襲によって家族を失い、戦災孤児になってしまった子供たち。上野はそれらの人たちにとって安住の地だったのかも知れない。

 上野駅から成田国際空港に行く京成電鉄のホームに続く広い地下道は、そうした浮浪児たちの格好のネグラになっていた。

 当時はダンボールなんてものがなかった時代だから、どこで手に入れたのか、わらで編んだ「こも」を地べたに敷きつめて寝ていたに違いない。

 駅側も困まりはてて、地下道の半分を使って店として営業させ、浮浪児たちを追い出してしまった。その中の一軒に「丸富士書店」というエロ本ばかりを並べている本屋さんがあった。

 下町育ちの威勢のいい奥さん、それと対照的に物静かなご主人と、老夫婦できりもりしていた。そのお店と並んで、カーテンだけで囲った陰気な店、それはゲイバーで、その他にもみやげ物を並べた店もあった。

 「丸富士書店」の老夫婦に頼みこんで、『薔薇族』の創刊号から置かせてもらった。ゲイバーに立ち寄るお客さんが買ってくれると思ったからだ。それが見事的中して、号を重ねるごとに売れゆきが増えていった。

 ところが地下道に車を乗り入れることはできない。表通りの映画館の前に車を停めて、次男を乗せていた乳母車に積んで何度も運びこんだ。昭和46年頃は車も少なかったので、車を停めても持っていかれることはなかった。

 カーテンで仕きったゲイバーに通っていたのが、NHKのアナウンサーの楯四郎さんだった。

 楯四郎さんは創刊10周年、第100号記念号に、「『薔薇族』は歴史を持った=そして『薔薇族』にまつわるささやかな自分史」という一文を寄せてくれている。

 夏の終わりが近づいてくると、いつも、もの憂い。遊び過ぎた時間が遠のいていくからである。
 上野の国鉄から京成に通じる地下道は、そのもの憂さがよく似合う道だった。くすんだ灰色の道である。その夜……というのは10年前のある夜、灰色の中にポツンと黄色い一点が浮き、それがたちまち私の目の中いっぱいに広がった。――これが、私と『薔薇族』との出逢いである。
 地下道の片側には、10人も入ればいっぱいになる酒場……もちろん仲間の……ちっぽけな店が数軒並んでいた。その中の一つ……なんの飾りもなく、愛想もないが、居ごこちも悪くない。……互いに干渉せず、それでいてやさしく、少し哀しげな目つきの、歌いもしない男たちが集ってくる、ちょっとした湿った店に、私は時々足を運んでいた。
 店の並びにそこだけは扉がなく、いくらか地下道に張り出した木の台いっぱいにポルノ雑誌を……といっても、当時はそんな表現をせずエロ本とよんでいた雑誌を……裸電球があかあかと照らしている本屋があった。
 いつもチラリと視線を投げるだけで通り過ぎてしまう私の、その夜ふと足をとめさせたんが、黄色い表紙のうすっぺらな雑誌である。……というよりも、その表紙に描かれている少年の……オレンジ色のTシャツを着てむき出しの足をかかえている少年の場ちがいな戸惑いの瞳に……描きかたが素人っぽいだけにかえって新鮮な表紙の少年に、ほとんど一目ぼれしたのだと思う。
 だが、すでに私は、この雑誌がやがて発行されることを……伊藤文学さんが何かに書いていた文章を以前に読んで知っていた。
 雑誌を買うのにためらいはなかった。それというのも一番上の一冊だけはむき出しのままだが、その下に積んであるのはすべてカバーをかけている丸富士書店の客の顔にいちいち好奇の目などは決して向けない店主の心づかいがあったためと、客同士まったく関心をかわさない、都会の気安さでもあった。
 地下道を出て、公園わきの街灯の下で、私はページをめくった。上質の紙面に街灯の青白い光が落ちていた。青白い街灯の下で『薔薇族』をめくった記憶は、その後、もう一回だけある。

 シャッターを上げたときから、下ろすときまで『薔薇族』を何百冊も売り続けてくれた「丸富士書店」の威勢のいい奥さんの声、老夫婦のことは忘れることはできない。

 NHKのアナウンサーの楯四郎さんが創刊号を買ってくれ、美輪明宏さんがロールスロイスに乗ってわが家まで買いにきてくれたり、『薔薇族』の読者は、すばらしい人たちだった。
(文=伊藤文學)

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