昭和と平成を駆け抜けた津田広樹の回顧

薔薇族だった時代 ~ライフガードの撮影と石膏型どり巨根コンテストの思い出~第4回

2019.05.14

オフショアの風が心地よい湘南~ライ フガードたちの夏が終わった

 薔薇族のカラーグラビア撮影とデザイン担当の他にも「津田広樹の BOYS TOWN」等のいわゆる芸能情報ページも任されるようになり、だいぶ忙しくなった。第二書房には私宛のファンレターを頂くようになり、励みになって いた。その頃、伊藤文學氏から「海での監視員の競技会役員の読者さんから、競技会を記事にしてほしいと連絡が来ている」と知らされた。

 その競技会は、お盆の時期の早朝4時に開始し7時には終了する。つまり出場選手は、8時には各々の浜に監視員勤務に戻らないとならないために、そんなに早朝だと知って納得した。

 前日の夜に競技会場に近いホテルに宿泊し、早朝3時起床で撮影のスタンバイをして競技会場に向かった。文學氏に連絡して下さった役員の方がどなたか分からないまま競技会の撮影をし、競技のタイム等も自ら記録した。帰宅して直ぐに撮影したフィルムを現像に出し(まだデジカメ時代ではなかった)、 「オフショアの風が心地よい湘南~ライ フガードたちの夏が終わった」をタイトルにしたモノクロの真面目なページを掲載した。このタイトルは自分で考えたものだ。

オフショアの風が心地よい湘南~ライ フガードたちの夏が終わった

 後にライフガード写真集が何冊か発売されたが(私は関係してないが)、いま思うに、私がライフガードを真面目に撮影した“走り”だと思う。薔薇族にモノクロで掲載されたページを見た競技会役員の読者さんから絶賛され、「お礼とご挨拶したい」と連絡が来た。実際にお会いして何時間も話をした。その方とは昭和後期~平成~と親しくさせて頂いている。

 この伝統あるライフガード競技会には、いまリハビリを頑張っておられるプロレスラーの高山善廣さんが、大学生時代にライフガードをなさっていた時代から92年にプ ロレスラーデビューなさり有名になられてからも、必ず毎年役員と て参加していらした。ライフガードやサーフィン仲間繋がりで、毎年この大会に応援に行って高山善廣さんが、一般人と変わらない立ち位置で手伝われていた真摯さを見ていたので、私はライフガードの知人達と高山善廣さんの奇跡の回復を祈っている。

 先日、伊藤文學氏が「382号で廃刊になった時に朝日新聞に記事が掲載されたのは驚いた! 薔薇族だけだよ廃刊になり朝日新聞に掲載されたのは」と仰っていたが、確かに雑誌廃刊で朝日新聞に記事が掲載されるのは快挙かも知れない。ゲイ雑誌のパイオニアとしてその地位を守り続けた文學氏と多くのスタッフの努力の賜物に違いない。

 先に記した競技会の様な真面目なページばかりでは読者さんが離れてしまうので、時には 「読者さん書店にまっしぐら!」みたいな特集も考えた。某コンド ーム会社で「石膏型どり巨根コンテスト」なる企画が行われたとの情報が入ったので、増刊号の目玉にピッタリとコンドーム会社に取材に行った。

 決して広くないコンドーム会社で普通に仕事をしているデスクを会釈しながらすり抜けて、申し訳なさ程度のベランダにお借りした箱を運んだ。中から出てきたのは、大小様々な男性器の石膏型どり、「なんじゃこりゃ~」 と心の中で叫んだ。

 大きいのを競うのに、有り得ない短小もあり不思議だった。考えられないレベルの巨根を撮影し、ベスト5くらいを並べて撮影してそそくさと帰社した。その石膏男性器写真を掲載し た 薔薇族夏の増刊号は、即日完売した。まだネットのない昭和後期だから、読者さんが飛び付いてくれたのかも知れない。

【津田広樹プロフィール】
 いわゆる80年代アイドル全盛の時代にスチール撮影のみならず、その多才さを認められてグッズ等の企画発案にまでもマルチな才能を発揮したキャリアをもちながら、あらたなる新天地として当時の有力ゲイ雑誌であった薔薇族の出版会社に編集部員として転身。その後もさらにその非凡なる才能の昇華は衰えを知らず、グラビアや企画ページ等にも幅ひろく手腕をふるい、多くの絶賛を得るまでにおよぶ。そして1996年にはゲイ業界初の試みであった3D写真集付き映像ビデオ、ジャック・リードを発売し世に送り出した。
 さらにオリジナル競パン付きDVDの発売など革新を起こし続けるも、昨年に全ての映像ソフ トのレーベルを手離す。しかし長年にわたり不変的な価値観を持ち続ける津田広樹の世界観は色褪せることのなく、その真価を現在も世に問い続けている。 

●津田広樹Twitter
https://twitter.com/hk8efj4xx3zxkim

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