氏賀Y太 リョナ・グロとマンガに人生を全振りする男のスケッチ【ルポルタージュ】

 実際、私生活での氏賀は極めて常識人だ。子どもが幼かった頃には、働きに出ている妻にかわってPTA活動にも積極的に参加していた。マンガ家というと「ジャンプで描いているのですか?」などと聞かれて面倒くさいので「グラフィックデザイナーです」とは、答えていたが。その子どもには、成人するまで自分の作品を見せたことはなかった。自分が、氏賀Y太であることは一切話さなかった。

《やっぱり、未成年にエロマンガの話はできなかった》

 子どもも親に似たのか、オタク趣味の持ち主に成長した。子どもが二十歳を迎えた時「お前のオタク友達に話したら、変に思われるかもしれない。人に話すかどうかは自分で判断しなさい」と前置きして、自分が氏賀Y太であることを告げた。オタク趣味ゆえに、さまざまな作品を読んでいたからだろうか。思ったほど驚かれはしなかった。

 ずっとマンガを描いていたい氏賀は、子どもができた時には、少し困惑した。「ずっと、自分が面倒をみなくてはいけないのか」。自信のなかった子育てだったが、子どもは存外に真っ当に成長した。でも、ふとした瞬間に氏賀は、不満を感じた。子どもが成人しても、人生の明確な目標を持っていなかったからだ。

「なんのために生まれてきたか、ちゃんと見定めなさい」と何度も子どもに、噛んで含んで聞かせていた。なのに、どうして自分が早々とマンガ家として生きることを決めたように、人生の目的を決めることができないのか。でも、ある時それが当たり前のことなのだと気づいた。世の中の大半は、そういう人間で占められているのだと。この世に生まれた理由に迷いながら、死ぬまで人生を全うすることが大事なのだと。

《なんだろうな……なんのために生まれてきたかわからないのは悪いことじゃない。今は、そう思っています……》

 本人は否定するかも知れないが、こうした人生の経験は、氏賀の作品に確実に反映されている。ニッチなテーマの作品の描き手は、すべてが一本調子になりがちだ。自分の描きたいものは、自ずと洗練されてくる。そうなると、いつも同じシチュエーション、同じ雰囲気のキャラクター、同じ物語の進行。すべて、同じことの繰り返しへと陥る。「エログロス」に作品が掲載された、ある描き手もそうだ。描く作品は、ほかの人には描けないような独特の世界。でも、もう何年も商業誌では見かけず、pixivすらも、ほとんど更新していない。渋谷がコンタクトしてみると、すでにプロのマンガ家として生きることは諦めて、別の仕事についていた。

「30代だと、まだやり直しが利くから。子どもが生まれたりして、いつまでもエロマンガの仕事をやってはいられないと去っていく。こうしたジャンルなら、なおさら……氏賀さんみたいになると、もう戻れないけどね」とは、渋谷の弁。もとより氏賀は、この先もほかの人生など考えてはいない。

《あと、何年くらい描き続けることができるか……。ほかにすることがないから……。もし、筆を折るとしたら、世の中から、もういらないと思われたとき……》

 * * *

 今回、氏賀に会うために、私は埼玉県のある街に出向いた。混雑した電車内で、私は一抹の不安を拭うことができなかった。渋谷は手際よく段取りをして、自分も話を聞きたいので現場に出向くといった。その電話の時に、とても驚くことを告げられていた。

 氏賀の近しい親族が死の床に就いていて、もしかすると日を改めることになるかもしれないというのだった。「もし、その場合は連絡をしますよ」。当日まで連絡はなく、私は予定通りに電車に乗った。

 ただ、電車の中で少し不安になった。人の死を幾度も描いているとはいえ、身内の不幸が近しい人に、死に絡む事柄を聞くことなどできるのだろうか。私の仕事は、いわば覗き屋のようなもの。幾度も人の死を描いている描き手が、近しく親しい身内の死に臨んで、どのような心情なのか。その状況で、作品を描くことができているのだろうか。興味は尽きなかったが、憚りなく聞くことができるかは自信がなかった。

 でも、待ち合わせ場所にやってきた氏賀は、こちらが驚くほど落ち着いていた。ただ、禁煙したと聞いていたのに、ポケットから煙草を取り出したのに気がついた。そのことを指摘すると、氏賀はごく自然な面持ちで、自分の心の内を語り始めた。

《残される身内の心のケアをしなくちゃいけないんで……我慢してやってられないと思って……》

 身内を喪うことは大きな悲しみである。けれども、同時に人間には残酷な一面もある。喪いたくない身内が、死の床についてから1週間、2週間と時が過ぎていくと、気持ちは混乱する。差し迫る死は悲しい。今日なのか明日なのか。いつともわからない日々を過ごすのは、全身を覆い尽くす大きな悲しみが先送りされているように感じてしまうのだ。

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