『孔雀王 戦国転生』(荻野真)先が読めない展開とは、こういうこと!見習うべき物語の構築!!

2017.04.22

「先が読めない展開」という言葉は、作品をレビューする上でよく用いられる言葉である。

 だが、本当の先が読めない展開とは、こいうことをいうのだろう。

 そう思ったのが、ようやく第4巻が発売になった荻野真『孔雀王 戦国転生』(リイド社)である。

 この第4巻。オビに、こう記されている。

『曲神紀』後に戦国時代に転生した孔雀の物語!!

 そう、第4巻にいたってようやく『曲神紀』の続きだということが、公式に宣言されたのである。

 ここで『孔雀王』の一連の流れを整理して記しておこう。

『孔雀王』(いわゆる「無印」。集英社「週刊ヤングジャンプ」1985~1989年連載)
→いろいろと壮大になったけど、無事に完結。

『孔雀王 退魔聖伝』(「週刊ヤングジャンプ」1990~1992年連載)
→天津神との戦いの途中で中断。

=長い空白=

『孔雀王 曲神紀』(途中から、「月刊ヤングジャンプ」に移行。2006~2009年連載)
→ラスボス(?)戦途中で打ち切り!!

 こうした経緯を経て『孔雀王 曲神紀』の単行本あとがきで、打ち切りの悔しさをにじませた上で、始まったのが『孔雀王 戦国転生』である。単行本第3巻では、ほかの作品を描こうとしても、みんな『孔雀王』の続きを要求してくるので、ヤケクソで始めた。そんなことを記している荻野氏。でも、同時進行で小学館の「月刊!スピリッツ」では無印の前日譚『孔雀王ライジング』を連載している。要は、ノリノリである。

 そして、もはやこれまで作品を追いかけている熱烈な読者だけで十分と思っているのか。

『孔雀王 戦国転生』は、ここまでのシリーズすべてと、関連作品をフォローしていないと、先が読めない以前に面白くない。

 例えば、単行本第2巻で匂わされた今回のラスボスの正体。それは、かつて「聖徳の王と呼ばれた男」だという。

 すなわち聖徳太子である。

 聖徳太子がラスボスとして登場するのは、既に『退魔聖伝』の中断後に連載した『夜叉鴉』(集英社)で描かれたもの。

 この作品、荻野氏が神道(とりわけ熊野信仰)に興味を持ったことに発端があるのだが、突然、力関係が「神道>密教」にシフト。その上で、やっぱり「先が読めない展開」であった。

 一つの例を示すと、こんな感じである。

「石原莞爾の正体は服部半蔵で、その実態はイザナギだったんだ」
→な、なんだってーーー!!

「そのイザナギも聖徳太子に操られていたんだ」
→な、なんだってーーー!!

 まったく人に薦める時に説明ができない。むしろ「メジャー誌で女体化を導入した先駆的作品」とでも、いったほうがよい。……と、思ってたら『戦国転生』でも第4巻で女体化をブチ込んできた荻野氏には脱帽だ。

 というわけで、『戦国転生』も「『孔雀王』の続きですよ!」という以外に、人に説明することが難しい作品である。

 ただでさえ難しいところに、ラスボスが聖徳太子だったはずの設定も第4巻で急変。西洋悪魔を率いたイエス・キリストになっているのである。『夜叉鴉』の時も、主人公サイドが「南無妙法蓮華経」を唱えて、敵は「南無阿弥陀」を連呼していて大丈夫か感があったが、今作はそれを遙かに凌いでいる。

 なによりも、ここまでついてきた熱心な読者にとって衝撃的なのは、打ち切られた『曲神記』では、ラスボスを倒してみんなを救ったことが、たった一コマで語られているのだ。

 ここで混迷は一段と高まる。いったい、どういう理屈で、その後に戦国にタイムスリップさせられということにするのだろうかと。

『曲神記』の時も、打ち切り作品『怨霊侍』を読んでいないと、疑問符だらけのシーンがあった『孔雀王』シリーズ。もう、こうなったら既存作品総出演で、いいじゃないか。

 そうなりながらも、読者が決して投げ捨てたりしないあたり、ホントに面白い作品となっているのだろう。それだけは、確信している。
(文=是枝了以)

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