【実写映画レビュー】大衆が求めるのは“奇人”ではなく“常識人” 16年版『ゴーストバスターズ』を見て感じたヒーロー像の変化

 84年版で、元コメディアンのビル・マーレイが演じた主人公ピーター・ヴェンクマン博士は冴えない女たらしだが、どんな超常現象が起こっても取り乱さない人間として描かれていた。好きな女が化け物に取り憑かれようが、破壊の神が復活しようが、うろたえない。表情をほとんど変えない。常に人を食ったような態度を崩さず、窮地に陥っても皮肉や憎まれ口を忘れない。温かい人間味が多少薄い代わりに、常人が到底持ち得ない英雄的資質、カリスマ性があったのだ。

 しかし16年版でクリステン・ウィグが演じた主人公エリン・ギルバート博士は、良くも悪くも人間味にあふれている。彼女は大学への正規雇用に執着する真面目な労働者であり、高い家賃におののく一般市民であり、ゴーストの出現に慌てふためく常識人であり、頭カラッポのマッチョ男をセクシーと感じてしまう、テンプレ感満載のアラフォー女性なのだ。

 このキャラクター設定は、時代の要請としかいいようがない。

「カリスマ的偉人」「手の届かない存在」「理解しがたい変人」が喝采をもってヒーローたり得た80年代と異なり、2010年代に人気を集めるヒーローは「共感の対象」だ。前世紀に創造されたバットマンにしろ、スーパーマンにしろ、その他のアメコミヒーローにしろ、ここ10年ほどの間に作られたリブート作では、とにかく悩む。戦う理由やアイデンティティについて、悩みまくる。悩むことで、観客に共感してもらうためだ。どんな状況でも意志と信条がブレないキャラクターは「頼もしい」ではなく「人間味がない」と言われてしまう。観客は心を寄せてくれない。

 現代の人々は80年代ほど、無邪気にヒーローを求めていない。能力値の高いヒーローはそれだけで嫉妬の対象となり、自分の劣等感を肥大させる不快な存在となるからだ。ここ30年で、世界は「生まれつき能力の秀でた者が活躍すること」にどんどん不寛容になってきている。今の観客が求めているのは心身ともに完全無欠のヒーローではなく、自分と同じように弱い部分を持つ存在なのだ。

 だからこそ現代においては、どんなスーパーセレブであっても、一般人と同じ感覚を持っている者が大衆の支持を集める。“セレブなのに庶民的”は常に褒め言葉であり、ニュースでは好意的に報じられる。セレブなのにファストフード好き、セレブなのに安い服を着ている、セレブなのにSNSでファンに絡んでくれる。「好感度」とは、大衆レベルに感性と目線を下げてくれる親切さのことだ。

 日本で求められる“アイドル”像の変遷も、それを端的に表している。80年代、アイドルとは「ブラウン管の向こうに住まう、やんごとなき存在」「手の届かない絶世の美少女」だった。しかし今では違う。アイドルとは、「会いに行って握手できる存在」「とてつもなく苦労してやっとステージに上がれた、ちょいブスな存在」に他ならない。大衆はタレントに憧れない。共感し、応援し、時に憐れみさえするのだ。

 それゆえ、現代における大衆映画の主人公は、常人に理解しがたいパーソナリティの持ち主ではなく、多数の観客が共感できる普通の感性の持ち主でなければならない。だからこそ、エリンは「一般市民的たるアラフォー女性」に設定された。

ゴーストバスターズ 1

ゴーストバスターズ 1

アラフォーは心くすぐられる!?

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