岡田は卑怯な人間だ。デートの待ち合わせ場所で男に絡まれて困っているユカを遠目に見つけても、救おうとはしない。高校時代、森田がいじめられている教室では、手を差し伸べるどころか、いじめっ子とともに笑っていた。
にもかかわらず、岡田は作中で、その“罪”に対する“罰”を受けない。
終盤、森田に襲われているユカを岡田が救い、手負いの傷は負うが、森田はお縄頂戴となり、話はそれで終わり。岡田は生き残る。岡田は森田の人生になんの影響も与えていないし、岡田自身の人間的成長もみられない。
一方で、岡田よりもずっと真摯に生きている、何ひとつ“罪”を犯していない人々が、森田に殺される。岡田の先輩・安藤は殺されないが、森田に銃で股間を撃ち抜かれる。安藤は童貞なので、童貞のまま不能の一生を過ごすだろう。あまりにむごい。
作劇のセオリーからすれば、岡田が生き残る理由はないはずだ。「弱虫だったけど、ここ一番でがんばった」「卑怯だったけど、改心して人生に立ち向かった」。そのご褒美として生き残るなら理解できるが、岡田は行きがかり上ユカを救っただけで、他の不遇な人々と比べると、その処遇は明らかに贔屓されている。
「努力していなくても、幸運が転がり込んだのなら、結果オーライでは?」とお思いだろうか。しかし、宝くじで超ド級に不幸になるのは、散財した挙句当たらなかった人間ではない。むしろ高額当選者のほうだ。
努力なしの幸運は、努力したのに不幸である理不尽と同様に、不気味かつ不穏。破滅の香りに満ちている。
『ヒメアノ~ル』を観終わると、我々は心底思い知らされる。どちらにしろ、世の中に因果応報などないのだ。功徳を積んだからといって幸せになれるとは限らないし、努力していないからといって不幸を背負うとも限らない。
しかも、幸せと不幸はあらゆる瞬間に、唐突に入れ替わる可能性を常に秘めている。忘れた頃にタイトル題字が出現するごとく。
世のすべての事象は偶然性の産物であり、人間ごときの努力でコントロールできるものは、ひとつもない。これを戦慄と言わずして、なんと言おう。
『ヒメアノ~ル』は非情なホラー映画だ。観た人間が幸せであれ、不幸であれ、漏れなく不安に叩き落とす。まったく不快極まりない代物だが、不快であるはずの「金玉ヒュン」を求めて人々がジェットコースターに列をなすのも、また事実。
やはり不快と快感は同じ皿に盛られているのだ。劇中で描かれた絶命と生殖のように。それらは、隙間なく交互に我々を襲ってくる。
(文・稲田豊史)
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