“おそ松”ロスな腐女子たちに捧ぐ!「ときわ荘」きっての美少年漫画家の生き様『マンガをはみだした男』

mangawohamidashita02アラーキーこと荒木経惟が撮影したボーダーレスに活躍した時期の赤塚不二夫。 作品だけでなく実生活でも、赤塚は常に笑いを追求し続けた。

 希代のギャグ漫画家を語る上で外すことができないのが、その生い立ち。赤塚の父親は元憲兵で、特務機関に属する諜報員として満州国(現在の中国東北部)で活躍。赤塚は1935年に満州の古北口で生まれ、終戦となる1945年まで満州で過ごしている。この満州国は五族協和と王道楽土を理念に掲げて1932年に建国されたものの、日本の敗戦によってわずか13年で崩壊した幻の国。『男はつらいよ』(69)の山田洋次監督や『シベリア超特急』(96)でカルトな人気を得た映画評論家の水野晴郎氏も満州で多感な少年期を過ごしている。母国の消滅に伴い、赤塚の父親はシベリア抑留、残された母と子どもらは命からがら日本に引き揚げ。母の故郷・奈良に辿り着くと同時に末妹が亡くなるというトラウマ級の体験の連続だった。赤塚作品の底が抜けたようなアナーキーさの原点は幼少期にあった。奈良での生活は食料事情が悪く、お腹をすかせていた赤塚は近所の悪童たちと一緒に果物畑を荒し回ったそうだ。このときの悪ガキ仲間たちが“おそ松”兄弟のモデルとなっている。

 その後、赤塚は新潟でペンキ職人として働きながら漫画家修業に励み、上京後は「ときわ荘」きっての美少年漫画家としてデビュー。まだ確立されていなかったギャグ漫画の分野で頭角を現わしていく。アシスタント制を最初に取り入れたのも赤塚で、アシスタントには古谷三敏、北見けんいち、土田よしこ、とりいかずよし……と多士済々たる才能が集まった。連日にわたって大ブレインストーミング大会が開かれ、傑作漫画に数々のギャグや多彩なキャラクターたちが生み出されていった。赤塚のもとには出版関係者以外にも様々な顔ぶれが集まり、夜ごとの宴会が新宿の繁華街で開かれていくようになる。そんな過剰な笑いのエネルギーが引き寄せ、さらに芸能界へと飛び立たせたのが福岡出身の最強の素人芸人・タモリだった。赤塚も次第にライブパフォーマンスに傾倒し、赤塚自身がナンセンスキャラとして振る舞うようになっていく。常識の壁を突き抜けた赤塚ワールドは二次元の世界を凌駕し、現実世界を侵蝕していく。また、この頃は古株のアシスタントたちが次々と独立していった時期でもあった。根がマジメで淋しがり屋の赤塚の酒量はどんどん増えていった。

 それにしても赤塚のお人好し伝説がすごい。連日の酒代はすべて払っていた赤塚だったが、家に入ってきた泥棒にさえ田舎に帰るための列車代を渡したこともあった。フジオ・プロの経理担当者が2億円を使い込んでいたときも、「仲間を疑うもんじゃない」と最後まで訴えようとしなかった。フジオ・プロのある下落合・中井に愛着を示し、地元のお祭りには赤塚の奥さんに加え、フジオ・プロ総出で協力していたなどのエピソードが語られていく。幼年期に故郷・満州を喪失した赤塚は、悪ガキたちと過ごした奈良時代、ときわ荘、フジオ・プロ、新宿での大宴会……と故郷の代わりとなるコミュニティを常に求め続けていたようだ。

これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝 (文春文庫)

これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝 (文春文庫)

本人もぶっ飛んでいたからこそ、今でも面白い作品が作れたんだろうなあ。

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