19回目を迎えた文化庁メディア芸術祭「文化の終わりの始まり=国家による選別」に加担しているのは誰か?

1512_bunkasho.jpg「文化庁メディア芸術祭」にて。

 11月27日、第19回文化庁メディア芸術祭の受賞作が決定し、記者発表が行われた。

 19回目を迎える国家が与える賞としての実績なのか、15時30分から始まった記者会見と共に受賞作の情報が解禁されると、インターネットではさまざまな賞讃と感謝の言葉が繰り返された。

 昨年、私は本サイトで「国家に褒められることの無価値さ 文化庁メディア芸術祭に見る“終わりのはじまり”」というタイトルの記事を書いた(記事参照)。文化庁メディア芸術祭という国策を多くのメディアが肯定的に報道し大衆が賞讃することは、文化が終焉へと向かっていることを示している。

 かつての大衆文化と呼ばれたものは「伝統芸能」として国家や行政機関による支援や協賛の果てに「ハイカルチャー」となり、上澄みだけを残している。折しも記者発表の前日に、小沢昭一が収集した『日本の放浪芸』のCD版が新たに復刻されるというニュースを目にした。この音楽集が最初にLPで発売されたのは1971年のことだが、そこに収録された芸には、もはや実演を目にすることができないものも多いということは、それを如実に示しているだろう。

 大衆文化の本来の価値である民衆からの支持を受けている部分を、国家は決して認めることができない。猥雑なものであったり、時の権力者をおちょくるようなものこそが、真に大衆の支持を受けるものだからだ。

 そして今や国家は「クールジャパン」を旗印に、そこに目を背けることを正当化する論理を打ち出した。文化を産業としての側面のみで捉えて、海外に売れる売れない、あるいはどう見られるかを基準にして選別することが蓋然性を得ようとしているのが現状だろう。

 すなわち、文化庁メディア芸術祭が注目されるのと、なんの裏付けもない安易な「日本バンザイ」をウリにするテレビ番組(我が国2600年の歴史は、ちょっと褒められただけで喜ぶ軽いモノなのか?)の流行は同一線上にあるのではなかろうか。こうした側面を私は拙著『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)の中でも論じてみた。

 けれども、論じているだけでは文字通りの「愚かな批評」。どういう人が選び、受賞し、そこにはいかなる感情が渦巻いているのか。六本木の国立新美術館で開かれた受賞作の記者発表の後の受賞者・審査員への取材の中で私はマンガ部門の審査員のひとり、すがやみつるに率直にぶつけてみた。

「──この賞は、国家による選別という面を否めないのではないか?」

 すがやは、かつては『ゲームセンターあらし』で子どもたちの心を沸かせた描き手である。現在は大学でも教鞭を執るすがやは、大学で教えるために自らが大学に入学して教育工学を学んだという。そんな人物がまず語ったのは、これまで審査員を引き受けた3年間、審査の過程において審査員の意志を阻害するような行為はまったくなかったということだった。

「最初に引き受けた時には、国が口を挟んできたりするようなことがあるのかなと思ったら、なかったです。こちらが選んだ作品に対しては“ダメです”ということはありません。多少、懸念を示されたことはありますが、無理矢理に介入してくることは、これまではありません。例えば昨年の『チャイニーズ・ライフ』(註:第18回マンガ部門の優秀賞)では、血が出るようなシーンもありますが問題にされることはありませんでした」

 けれども、積極的に審査に権力の意志が入ることがなくとも、表現された内容が問題視されることも皆無ではない。

「犯罪行為を扱う作品を審査員側が“これは面白い”と推薦作にあげたところ“賞にそぐわない”と下げられたことはあります。今回、首を斬っているようなシーンがある作品があり、政治問題にならないかという心配はありましたが、審査の過程で最後まで残らなかったので問題にはなりませんでした」

 やはり「文化庁メディア芸術祭」という国家による事業の一環である以上、無意識のうちに脳裏で自主規制をしてしまっているのではないか。そんな疑問も生まれた。

 だが、続けてすがやが語った言葉は、その自主規制あるいは自己検閲をする主体を如実に浮かび上がらせた。

「今年は境界的な作品の応募が減りました。同人誌なんてコミケやコミティアであんなに多くの作品が頒布されているのに、応募は減っているんです。応募がないと選びようがない。作り手の側が勝手にイメージをしているのじゃないかと思っています。今年は『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』が応募してくれば、議論になって面白いなと考えていたんですが、来なかったですね。もっと破天荒でもいいと思っています。私は今年は『いちきゅーきゅーぺけ』をプッシュしたんですけど、ほかの審査員が乗ってこなかった……」

 すがやの言葉から浮かび上がるのは「文化庁メディア芸術祭」という、国家のにわかじみた事業のひとつを何かの権威と勘違いしているのが誰か、という問いへの回答である。作り手、報じるメディアや「○○先生受賞おめでとう」とTwitterなどで語る民衆は、それぞれどこかに国家の行事というフィルターを持ち自己検閲をしているのだ。

 どこかに「悪」や「愚かな目論見」をする人がいるのではない。クールジャパンという言葉に象徴される「文化の終わりの始まり」を創造し再生産しているのは、文化の作り手と受けてのすべて、すなわち我々自身なのだろう。

 そんな今年の受賞作は10年後、20年後にどういった時代の表象のように見られるのだろう。そんな作品が一同に介する作品展は来年2月から国立新美術館で開催される(スタッフの人に「この囲み取材、一応メディア芸術祭のPRなんで……」といわれたので、ちゃんとPRしておきます)。
(ルポライター/昼間たかし http://t-hiruma.jp/

第19回文化庁メディア芸術祭公式サイト
http://j-mediaarts.jp/

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