【劇場アニメレビュー】なかむら&アリアスが作り上げた官能的な人間臭さ、伊藤計劃の魅力をシンプルに解き明かした快作『ハーモニー』

2015.11.13

「PROJUCT‐ITOH」公式サイトより。

 2007年に『虐殺器官』(早川書房)で作家デビューし、08年に『ハーモニー』(同)を発表するも、続く『屍者の帝国』(河出書房新社)にとりかかってまもない09年3月20日に34歳の若さで死去した、ゼロ年代を代表するSF作家・伊藤計劃。

“PROJUCT‐ITOH”は、そんな彼が遺した長編小説3本(『屍者の帝国』は盟友・円城塔が引継いで、12年に完成させた)をアニメーション映画化するプロジェクトであり、既に第1弾『屍者の帝国』が公開中。11月13日より第2弾『ハーモニー』が公開される(第3弾『虐殺器官』は諸般の事情で、現在製作体制の見直しが図られており、公開時期も未定)。

 蘇生された死者=屍者を労働力として活用している架空の19世紀末の世界を舞台に、とある任務を受けたロンドンの医学生ジョン・ワトソンとその親友でもある屍者フライデーが世界を駆け巡る『屍者の帝国』(第44回星雲賞・日本長編部門&第33回日本SF大賞特別賞を受賞)は、中編SF映画『ハル-HAL-』(13年)で監督デビューした若手・牧原亮太郎が難解かつ膨大な量の原作と誠実に向かい合い、またそれゆえの内容の改変に対する賛否も覚悟しているかのような、さらには作り手としての混乱すらごまかすことなく提示したかのような意欲的姿勢に、一観客として非常に感じ入るものがあった。

 そして第40回星雲賞(日本長編部門)や第30回日本SF大賞、さらにはフィリップ・K・ディック記念賞特別賞を受賞した『ハーモニー』は、ベテランアニメーターで『AKIRA』(1988年)などでは作画監督を務め、『パルムの樹』(02年)などの監督作でも知られるなかむらたかし、CGクリエイターとして名を馳せ、『鉄コン筋クリート』(06年)で監督デビューを果たしたマイケル・アリアスの共同監督作品である(アニメーション制作はSTUDIO4℃)。

 高度な医療社会が成された未来社会に背を向けるかのように、紛争地域の停戦監視などを仕事とする、政府ならぬ“生府”のWHO螺旋監察官として戦場勤務していた霧慧(きりえ)トァンは、日本への強制帰国を命じられ、そこで13年ぶりに旧友の零下堂(れいかどう)キアンと再会する。
 学生時代、トァンとキアンは反社会的な美少女・御冷(みひえ)ミァハに魅せられ、やがて3人は自殺を試みるも失敗し、ミァハだけが亡き人となってしまっていた……。
 忌まわしき過去を思い出したくないトァンではあったが、まもなくして世界を揺るがす恐るべき事件が勃発する……。

 原作の『ハーモニー』は『屍者の帝国』同様、いやそれ以上に複雑な時代背景や設定などがなされているように思えるが、今回は脚色化にあたってのストーリーテリングがかなりの部分でうまくいっているようで、危惧していたほどの難解な印象はもたらされない。

 ただし、主人公トァンのモノローグで作品世界などを語り続けていく構成は、その膨大な情報量の説明に終始しているところが多分にあり、やむを得ないとは承知してはいるものの、やはり伊藤小説の映画化の困難さを痛感させられもする。

 もっとも、今回は声優陣のキャスティングが実にうまくいっていて、特にトァン演じる沢城みゆきが発する声のトーンやリズムなどは、作品の世界観そのものまでをも自然に醸し出しており、単なる言葉の説明以上のわかりやすさを見る(聞く)者に体感させてくれている。

 ミァハ役の上田麗奈のコケティッシュな声に至っては、謎めいた美少女としての説得力をも優に超えて、本作そのものの象徴たりえているようでもあった。

 かつて宮崎駿監督は「(自分の作品に)コケティッシュな声はいらない」と発言し、自作(およびスタジオジブリ作品群)のメイン・キャストに職業声優の起用を拒絶するようになって久しいが、コケテイッシュな声だからこそ表現できるものも大いにあるわけで(逆に声の仕事に慣れてない俳優やタレントばかり起用することで、その質まで貶めることになった劇場用アニメーション映画の何と多いことか)、本作はその好例ともいえよう。

 これにキアン役の洲崎綾を加えた3人による、思春期特有の甘美で痛い回想シーンや、ぎこちない現在の描出なども併せて体感し続けていくことで、この映画の本質が、官能的なまでに人の“想い”にこだわった青春映画であるという事実に気づかされることだろう。

 また、だからこそなかむら&アリアス両監督が起用された理由も明らかになるというものだ。

 実は『パルムの樹』のとき、なかむら監督に取材させていただいたことがある。当時はハリー・ポッター・シリーズや『ロード・オブ・ザ・リング』などファンタジー映画がブームだった時期でもあり、しかしそうした華やかさとは無縁であるかのように『パルムの樹』は人の痛みを描いた“想い”の映画であった。

 一方、当時高畑勲監督は「ファンタジーは逃避のメディアである」と、映画やアニメーションのファンタジー・ブ-ムを批判しており(もっとも、後に高畑監督は日本のファンタジーの原点ともいえる『かぐや姫の物語』を発表することになるのだが)、この発言をどう思うか、あえて意地悪な質問をなかむら監督にぶつけてみた。

 彼は「それは違う」と即答し、「ファンタジーは弱き者のためのメディアです」といったニュアンスの言葉を続けた。それはまさに我が意を得たりであった。

 一方で、マイケル・アリアス監督にも『鉄コン筋キンクリート』で取材させていただいたことがあるが、一見して人好きのする風貌に加えて、原作・松本大洋の特異な絵を活かしつつ、いかにヒューマン・タッチで描出していくかに腐心している発言の数々に接するにつけ、デジタルとは決して無機質なものではなく、そこに人肌の温もりを盛り込むことも大いに可能であることを、当時にして確信させていただいたものである。

 映画『ハーモニー』は未来社会としての背景描写のみならず、3DCGセルルックによるキャラクター描写など、全編にわたってデジタル技術の粋が盛り込まれているが、かつて少女だった者たちの甘く切ない関係性は不思議なまでに人間臭いアナログ感覚で貫かれている。

 また、恒常的体内監視システム“Watch Me”を埋め込まれた人間たちと、彼らを管理する中枢とを繋ぐパイプはどこか生々しい血管のようにも見え、まさにシステムそのものが巨大で温もりを排した、脅威的ながらどこか哀しい人間のように思える瞬間すらある。

 ここに至り、なかむら&アリアス監督のタッグとは、とどのつまりデジタルを用いたアナログ感覚の発露にほかならず、これによって映画『ハーモニー』は理屈ではなく感覚で見る者に訴える作品になり得ていると確信した次第である。

 キャラクター原案redjuiceによる各キャラも一見淡白ながら、ドラマが進むに従って徐々に官能性を帯びていくのは、やはり熟達した演出と、進化を重ね続けるデジタル映像技術との融合の賜物だろう。

『屍者の帝国』同様、原作の持つカリスマ性ゆえに賛否の嵐は吹き荒れることだろうが、少なくとも映画単体としての完成度は高いし、私自身、伊藤原作の根本的魅力をシンプルに解き明かした快作であると解釈している。いずれにしても今年のアニメーション映画を代表する1本であることに間違いはない。
(文・増當竜也)

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