劇場アニメレビュー

【劇場アニメレビュー】アニメオリジナルの傑作エンド、女性同士の艦隊バトルを通して“人としての喜怒哀楽”を描く

2015.10.07

アニメ『蒼き鋼のアルペジオ―アルス・ノヴァ―』公式サイトより

 Ark Performanceによる人気コミック『蒼き鋼のアルペジオ』(少年画報社)を原作とする2013年のTVアニメシリーズ『蒼き鋼のアルペジオ―アルス・ノヴァ―』(全12話)は、15年の春にTV版の再編集+追加シーンで紡がれた前編『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ―アルス・ノヴァ―DC(以下『DC』)』として映画化され、そして10月3日より後編となる完全新作『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ―アルス・ノヴァ―Cadenza(以下『Cadenza』)』が公開中である。

 最初に申しておくと、私が最初に接したアルペジオ・ワールドは映画版『DC』で、あえて予備知識なしに映画館で鑑賞してみたところ、非常に基本ラインがわかりやすい構成になっていたことに感銘を受け、そこから俄然興味がわいてTVシリーズ、そして原作と遡り、今回の『Cadenza』に臨んだ次第。

 TV版の熱心なファンの方が、総集編映画に対して「TV版を見ていないと理解できないのでは?」といった意見を述べたりするのをしばし見聞きするが、実のところ大抵の総集編映画は、ちゃんと作り手がイチゲンさんにも最低限のところはわかるように腐心しているものである。

 近未来の地球の海に突如現れ、人類を海上から駆逐した“霧の艦隊”。彼らはなぜか第2次世界大戦時の艦船を模し、しかも艦船そのものに意思がある謎に満ちた存在であり、それぞれ女性型のメンタルモデル(アバターみたいな存在と思えばわかりやすい?)を用いてコミュニケーションなどを図っている。

 劇中、なぜメンタルモデルが女性ばかりなのかという質問に対し、「地球では艦船を指す言語はすべて女性形である」といった回答の台詞があるが、実にうまく考えたもので、これによって本作は日本アニメの二大文化ともいえる戦闘アクションと萌えの両立を、無理なく成し遂げている。

 さらには、なぜか霧の艦隊を裏切って、人類側の士官候補生・千早群像の艦となる潜水艦イ401および、そのメンタルモデルである少女イオナ。群像とイオナの関係性はまさに男と女のそれで、TV版第1話(および映画『DC』冒頭部)で群像がイオナに「お前は俺の艦になれ」と命令し、胸膨らませるかのように大きく反応した後でイオナが「群像、私に乗って」と返すくだりこそは、うがった捉え方を承知で吐露すると愛の告白からSEXに至る暗喩に思えてならず、こうしたセクシャリズムが巧まずしてシリーズ全体を覆い尽くしていることに気づきさえすれば、何のことはない。テレンス・ヤング監督の『アマゾネス』よろしく、まるで女だけの世界にたったひとりの男が紛れ込んだことで社会が崩壊していくのと同じ道理で、イ401と対峙する霧の艦隊の猛者=彼女たちも次々と自我と愛に目覚めては群像の側へ寝返っていく過程がそれぞれスリリングかつ感動的、時にユーモラスに映えわたるのだ。

 たったひとりの男をめぐっての、多数の女たちの諍いといった構図を際立たせるために、群像とともに戦う同志たちにしても、素性を明らかにせず、おのおのの言動そのものからサポーターとしての魅力を醸し出しているあたり、いっそ潔い。

 肝心なことを忘れてはいけない。本シリーズはサンジゲン制作による3DCGのセルルック映像が、従来のSFバトル・アニメにはない斬新な深みと気迫をもたらすことに成功しており、欧米にない日本独自の3DCGのひとつの方向性を示唆するものとしても、大いに注目してしかるべきものがあるだろう。

 というわけで、前説が長くなったが『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ―アルス・ノヴァ―Cadenza』である。結論から先に申すと、これは『伝説巨神イデオン』や旧『新世紀エヴァンゲリオン』など、前編をTV総集編、後編をオリジナルとする劇場用アニメ映画の流れの中でも特筆すべき傑作といっても差し支えない。

 何よりもサンジゲンによる3DCGセルルックを駆使した戦闘シーンは、これまでのものを大きく上回る銀幕の大画面に映えるド迫力で、原作もTV版も、前作『DC』を見ていないイチゲンさんですらも、細かいドラマの機微はともかくとして、そのダイナミズムを大いに驚嘆できるはずである。

 特に、ついに己の正体を知ったイオナが力を失い、ただの潜水艦になってしまったイ401が、映画版オリジナルキャラでもある強敵“霧の生徒会”の目を欺きながら潜航していく中盤の過程は『眼下の敵』『U・ボート』など古今東西の潜水艦映画の名作群にも負けておらず、同時にさりげなくもクルーたちの見せ場にもなっている。

 対する霧の生徒会の面々それぞれの個性も良い意味で記号的かつバランスよく配置されており、特に猪突猛進キャラのアシガラが繰り出す直球ノーテンキなアホっぷりは、映画そのものを牽引するほどの機動力たり得ていた。

 その後、クライマックスに至るバトルの流れも大方予想通りの展開ではあるのだが、その予想通りに“彼女たち”が登場していくタイミングなどが憎らしくなるほど絶妙で、しかもまさかの新装備がドリル! 男の子の永遠の憧れともいえる(!?)ドリルを繰り出す愛しいキャラが誰かは見てのお楽しみとして、このクライマックスがあまりにも盛り上がりすぎて、続くラスト・バトルがやや霞んでしまった感もなきにしもあらずではあった。

 もっとも、霧の艦隊の両巨頭たる超戦艦ヤマトとムサシの関係性もまた女同士ならではの愛と確執にまみれたものであり、要はこのシリーズ、艦船バトルの衣をまとった女たちの壮大なる諍いを通して、人としての喜怒哀楽の感情の素晴らしさを潤い豊かに訴え得たものであることを、この後編で改めて痛感させられることだろう。当然、ラストも感涙必至なのである。

 TVシリーズから提示されていた謎の多くも解き明かされ、エンド・タイトル後のおまけのオチにも心洗われ、感動のカタルシスに満ちるあまり、いつしか霧の艦隊が出現した理由が解き明かされないことも気にならなくなってくる。ある日突然鳥の群れが人間に襲いかかるものの、その理由を一切説明しない動物パニック映画の名作『鳥』と同じ理屈だ。

 そもそもTV、映画と連なるアニメシリーズは、今も連載中の原作コミックと異なる独自のドラマを最終的に形成していったわけだが、これが「原作と映像作品(TV&映画)は別物」と肯定的に言えるほど秀逸な仕上がりとなっているのは喜ばしいことこの上なく、後続の同系統作品の良きお手本にもなることであろう。

 一方で、原作そのものが完結した後、もしかしたら霧の艦隊のすべてを解き明かす新作映画の製作も可能になってくるかもしれない。そう思うだけで心が沸き立つものがある。それだけ一級のエンターテインメントを具現化したのが、『蒼き鋼のアルペジオ―アルス・ノヴァ―』なのであった。

 監督の岸誠二は、劇場版アニメ『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』(13年)で中二病の若者たちの繊細な心のひだを見事に描き、最近でもTVアニメ『暗殺教室』(15年)で落ちこぼれ中学生たちの心根をお茶目な暗殺合戦の中から巧みに醸し出すなど、常に注目に値する監督のひとりだが、今回は映画的感性を活かしながら、さらなる飛躍を遂げてくれていることが頼もしくもうれしい限りであった。
(文/増當竜也)

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