滅びゆく世界が伝える“終わりなき日常”『少女終末旅行』

150723_syumatsu.jpg少女終末旅行第2巻(つくみず/新潮社)

 昨年11月に発売された第1巻が話題となり、この7月、ようやく第2巻が発売されたマンガ『少女終末旅行』(新潮社)。タイトルの「終末」という言葉が示すように、舞台は終わりゆく世界。物語に出てくるさまざまなギミックから、すでに世界の終わりが始まって、ずいぶん時間が経っていることがわかります。この世界を、軍服風のヘルメットとコート姿のユーリとチト、2人の少女はケッテンクラート(後ろがキャタピラになったオートバイです)に乗って旅をしています。

 お気楽なユーリと何事にも冷静なチト。正反対な性格の2人ですが、良いコンビのようです。2人がどこからやってきて、どこへ旅しようとしているのかは、まったくわかりません。2人が旅するのは、おそらく戦争か何かで壊滅してしまった終末世界。多層構造で、いまだにインフラの一部が生きているあたり、かなり高度な文明が存在したことを伺わせます。でも、その文明が生み出したものはほぼすべて失われているのです。ある回では、2人はまだ稼働している発電所へとたどり着きます。そこで、発電機のタービンで熱せられたお湯が循環するパイプを見つけて、久々のお風呂を楽しみます。

 しかし、彼女らはここが発電所という施設だということが、まったくわからないのです。つまり、この世界では、世代を通じて知識を伝承するという行為が完全に断絶しているのです。それを象徴するように、ユーリはろくに読み書きもできません。本のすごさを知り、日記をつけているチトに対して、ユーリは記憶を記録することの意味すら理解できません。間違えてチトの本を焚き火にくべてしまうほど、知識の価値がわかっていないのです。

 ここで筆者が思い出したのは、冷戦中の1984年にイギリスで作られた『スレッズ』という映画でした。この映画は米ソの核戦争による破局を描いた後、多くの時間を割いて、生き残った人類の社会が崩壊していく様を描いていました。破滅の後にやってくるのは、社会性の断絶です。食糧を得て生きることに必死な状況では、人間社会の基本的なルール、言語や習慣など、当たり前のことを次の世代に伝承する余裕すらなくなり、そして、人類は滅亡していきます。

 終末系のマンガ作品といえば、芦奈野ひとしさんの『ヨコハマ買い出し紀行』(講談社)も思い出します。あの作品で描かれたのは滅びの序曲であり、人類は最後の日常の中を生きていました。『少女終末旅行』は、それよりももっと先。滅びることが確定してしまった世界の物語とみていいでしょう。

 けれども、そこでも希望を持つ人々がいます。旅の途中、2人は、この世界の地図を作るために旅をする男、壊滅した基地に残された資料を集めて飛行機を作ろうとしている男に出会います。2人は、彼らの持つ知識に感銘を受けます。でも、どこか傍観者的です。なぜなら、それがどんなに重要なことか。それを知る術は、もはや彼女たちにないのですから。

 そんな2人のあてどもない旅は、どこに向かうのでしょう。たとえ、彼女たちの旅に終わりがあったとしても、それは決して希望に満ちたものにはならないと思います。それでも、物語が鬱々としないのは、彼女たちが食糧を得ることだったりお風呂だったり、そういったささやかなことに満足を得ているからでしょう。

 この物語は、“ここではないどこか”などない、日常を生きるしかない読者に、日常にも感動があることを改めて気づかせてくれる、極めて哲学的な作品だと思った次第です。
(文/大居 候)

少女終末旅行 1巻

少女終末旅行 1巻

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

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