“リアル系”格闘マンガ『修羅の門 第弐門』が、最終回を前に異能バトル――急激な路線変更にファンは困惑!?

150525_syura.jpg修羅の門 第弐門』第16巻(川原正敏/講談社)

「陸奥圓明流 千年の歴史に敗北の二字はない――」

 1987年に「月刊少年マガジン」(講談社)でスタートし、長期休載や外伝を挟みながら現在第2シリーズを展開中のマンガ『修羅の門 第弐門』が、いよいよ6月5日発売の同誌7月号にて最終回を迎える。

 素手であらゆる強者と戦い、千年間不敗を誇る幻の古武術“陸奥圓明流(むつえんめいりゅう)”。『修羅の門』はその継承者・陸奥九十九が現代の格闘技界に現れ、フルコンタクト空手や柔術、ボクシングなど各分野のスペシャリストと死闘を繰りひろげる物語だ。主人公の異色な格闘哲学とセリフまわし、超人的ではあるがあくまで人間の五体だけを使ったリアリティある奥義の数々が読者を沸き立たせ、コミックスのシリーズ合計発行数は3000万を超えている。外伝『修羅の刻』はテレビアニメ化もされているので、そちらを先に知ったという人も多いだろう。

 また、古武術vs現代格闘技という、当時としては斬新なフォーマットを確立させ、1990年代に起こった“古武術マンガブーム”の先駆者でもある。集英社からは『真島クンすっとばす!!』『宇強の大空』、小学館からは『秘拳伝キラ』、秋田書店からは『関節王』など、同フォーマットを採用する数多くのフォロワー作品を生み出した。

 そんな格闘マンガ界の金字塔『修羅の門』だが、現在「月刊少年マガジン」連載分で展開されているラストファイトで、小さな異変が起こっている。これまで四半世紀以上、作者の川原正敏氏が頑なに封印してきた異能バトル展開――“概念vs概念”の戦いをついに解禁してしまったのだ。

 現在までのストーリーダイジェストは、ざっと以下のようなもの。前シリーズ『修羅の門』で世界中の猛者と戦い抜いた陸奥九十九は、その後の野試合で大怪我して記憶の一部を失ってしまった。連載再開後の『第弐門』では数々の死闘を経て記憶と強さを取り戻し、やがて歴代の陸奥一族でも最強といえる存在になった。そこへ戻ってきたのが、前シリーズで最初のライバルだった天才空手家・海堂。彼は一度完敗を喫した陸奥に勝つため、山ごもりで“理想の空手”を身につけ、最後の激闘が今まさに繰り広げられているところだ。

 初期ライバルが最後の強敵となる――本来なら非常に熱いストーリーなのだが、世界観を狂わせるほど敵をパワーアップさせすぎたことなどが、一部ネット上で批判される原因になったのだ。

■「リアリティ」が邪魔になる!? 連載長期化が格闘マンガにもたらす影響とは

 海堂が修行の末にたどり着いた空手の極意は「あらゆる因果を受け入れ、呑み込む」という境地。相手のどんな攻撃もすべて受け流して一撃必殺のカウンターを叩き込めるという、チートじみた能力だ。陸奥九十九も「人間の限界を超えた力を引っぱり出し、それを継続させる」ことでなんとか対抗しようとする。

 過去にも本作には「神の声を聞いてあらゆるパンチを予測するボクサー」「菩薩の境地に達してあらゆる攻撃を避ける空手家」といった概念的な戦い方をするライバルが少数ながら登場したが、あくまで陸奥九十九はそれらに生身の拳で応え、打ち倒してきた。“神(概念上の存在)に千年間挑み続けた一族 = 陸奥圓明流 = だからこそ最強に一番近い”という作品の根幹がブレることはなかった。

 それが、ラストファイトで見事に覆された。誌面上には修羅王(陸奥九十九)・空王(海堂)という“概念”同士がただ動きまわるだけで、意地の張り合いもかけひきも存在しない。『修羅の門』シリーズを長年支えてきた、良い意味での泥臭いバトル描写が消えてしまったのは、連載初期からのファンである筆者としては残念に思う。

 千年にわたり宮本武蔵や土方歳三、西郷四郎といった歴史的な強者と戦って鍛えぬかれてきた陸奥一族の最高傑作(陸奥九十九)が、たった数年間山ごもりして修行しただけの空手マン(海堂)に並ばれてしまう性急さも、これまでの『修羅の門』に見られなかった雑な部分だ。せめてライバルが成長していく過程を丁寧に描写できていれば、もっと違和感は少なかったと思われるのだが……。

 こうした『第弐門』の評価について、ネット上では賛否両論ある。まずツイッターユーザーからは「最終回楽しみすぎる」「続編物の教科書」など、好意的なコメントが多いようだ。

 逆に2ちゃんねるのスレッドでは、否定的な意見が多数を占めている。最大の理由は、先述した通り、「ライバルの理不尽すぎるパワーアップが納得できない」という点だ。「作者は連載を早く終わらせたがっているのではないか」「過去最低のラスボス戦」など、辛辣な声が目立つ。

 ここまで若干ネガティブな見解を書いてしまったが、それが作者・川原氏の力量不足に起因するものとは筆者は思わない。現実離れした描写がいくらでも許容される『ドラゴンボール』『ONE PIECE』(共に集英社)など、いわゆる“スーパー系”格闘バトルマンガに対し、『修羅の門』のような“リアル系”は連載長期化に伴って無理が出てくるからだ。常に新しい変化と刺激を求め続ける読者に対して、「リアリティ」という制約がどうしても邪魔になってしまう。

 近い時期に“リアル系”としてスタートした有名格闘マンガを振り返ってみれば、『グラップラー刃牙』(秋田書店)は早々に路線転換し“概念vs概念”のバトルを解禁した。また『高校鉄拳伝タフ』および完結編『タフ』(集英社)でもやはり最終バトルは「実体を消して残像を残す」「自分が受けたダメージを相手にも返す」など、概念じみた超常技のオンパレードであった。この2作品は比較的早い段階から異能バトル展開をしていたため、批判も少ないように見受けられた。だが『修羅の門』は異能バトル展開への移行が急激だったこと、また一番盛り上げるべき最終決戦でやってしまったことにより、読者によっては強い拒絶反応を示したのかもしれない。

 いずれにせよ『修羅の門 第弐門』はあと1話で終了だ。神に戦いを挑み続けた大馬鹿な陸奥一族の末裔が、史上最強のライバル相手にラストファイトをどう締めくくるのか。「月刊少年マガジン」発売を心待ちにしたい。
(文/浜田六郎)

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