常に存在するタブーを侵犯することの快感 『誰がタブーをつくるのか』

1408_darega.jpg誰がタブーをつくるのか(河出書房新社)。

 本サイトでもたびたび扱っている“表現の自由”をめぐる問題。法律によって自由な表現が規制されてしまうことへの関心は高い。けれども、実はさまざまな事情によって、言いたいことを言いにくい状況は常に生まれているものである。

 永江朗氏の新著『誰がタブーをつくるのか』(河出書房新社)は、そのことを再認識させてくれる一冊だ。前がきで永江氏は日本の“表現の自由”をめぐる状況について、次のように記す。

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 現代の日本で、共産主義者だからといって、警察に捕まったり、牢屋に入れられたり、拷問を受けたりすることはない。せいぜいのところ、公安警察に尾行されたり電話線に盗聴器を仕掛けられたり、就職先にわざわざ「警察の者ですが」と立ち寄って会社にいづらくされるなどの意地悪がある程度だ。命まではとられない、たぶん。

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 そして、永江氏は自身の体験を交えながら、さまざまなタブーの姿を描いていく。実のところ、国家権力が介入しない状況においても、そこそこ公の場では話しにくいこと、文章にして発表しづらいことはある。例えば、雑誌などにおけるコンビニやキヨスク(JR)に対する批判しづらい状況がそれだ。永江氏はそうした実例も躊躇なく記していく。

 また、児童ポルノをはじめ、“表現の自由”に関する記事を頻繁に執筆していた経歴もあってか、ワイセツや青少年健全育成条例に対しても多くのページが割かれている。

 そうした豊富な実例も読み応えがあるが、注目したいのは後半で記されている問題提起「タブーがなければハッピーか」の部分である。

 永江氏は自身の体験として、ヘアヌード解禁以前には下着の布の二重の部分を一枚切り取ったり、霧吹きで布を濡らすなど、さまざまな手段で「見えているけど、見えない」と言い張れる手段を創意工夫していたことを記す。それが今やヘアヌードは解禁されたどころか、インターネットでは無修正の動画は見放題というのが現状である。

 この現状を永江氏はこう記す。

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単純にいうと、「ヘアヌード解禁」、性表現規制の一部自由化(緩和)がポルノ表現をつまらなくしたのだ。

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 別段、永江氏は「だから規制は必要」のような論を述べているわけではない。永江氏が看破しているのは、いつの世にも常にタブーが存在すること。そして、それを侵犯することには快感が存在することである。

 表現は常にタブーと共にあり、絶対的な自由などありえない。その中にあって、いかにタブーが存在することを認識し、それを覚悟をもって侵犯していくことができるか。それは、表現を生業とするものに課せられた使命であることを、この本は再認識させてくれる。
(文/昼間 たかし)

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