【初心者歓迎! アメコミ道場 Vol.2】

映画『キック・アス』が描かなかった、アメリカがはらむ“正義という名の暴力” マーク・ミラーのアメコミ哲学とは?

【第1回はこちら】

 前回はアメコミの歴史をひも解きながら、アラン・ムーアの批評性とフランク・ミラーの過激さを持ったマーク・ミラーという作家が“もしいま現実にヒーローがいるとしたら、それはどんな存在か?”と取り組んだのが『キック・アス』と紹介しました。それでは、ここからは実際に原作と映画版『キック・アス』を比較しながら、マーク・ミラーのアメコミ哲学を探っていきましょう。

1404_kickass1.jpgキック・アス(小学館集英社プロダクション)。

【以下、原作および映画版『キック・アス』の結末に触れています。ネタバレしたくない方は閲覧の中止をお勧めします】

■あらすじ
 平凡なオタク青年のデイヴは、ある日ヒーローになることを決意した。ネット通販で揃えた自前コスチュームで、さっそく街へ出るデイヴだったが、なんの特殊能力もない彼は、逆に街のチンピラにボコボコにされてしまう。が、その捨て身の行動がYouTubeにアップされ、ヒーロー“キックアス”として一躍時の人に! やがて彼は、高度な訓練を受けた殺し屋“ヒットガール”と出会い……?
(『キック・アス』帯記載のあらすじより)

 本作は2008年から2010年にかけて、全8冊のミニシリーズとして刊行されましたが、なんとシリーズ第1話の発売前から映画化が決定し、原作の執筆と映画の制作が同時に進行しました。そのため映画版は原作者であるマーク・ミラーの承諾のもと、製作・監督・脚本を担当したマシュー・ヴォーンによって、さまざまな改変が加えられています。

 今のアメコミ、もっと大仰にいえばアメリカ文化の中心となっているのは映画です。こうした映画での改変は、作品をより一般受けするために必要なブラッシュアップといえるでしょう。しかし、それであるがゆえに、『キック・アス』映画版と原作版の差異がマーク・ミラーの作家性を際立たせる結果となりました。それはごく簡単にいえば“正義と暴力”に対する批評性です。

 ご覧になった方ならおわかりの通り、映画版と原作である本作の大筋は、ほぼ同じです。上記のあらすじの後、ヒットガールに戦闘技術を教え込んだ実父“ビッグダディ”も加わり、キック・アスはギャングとの抗争に巻き込まれていきます。そして、その戦いの最中でビッグダディは無残な死を遂げ、キック・アスとヒットガールは復讐のために、たった二人でギャングのアジトに乗り込んでいく……。

 映画版では、この間にデイヴが片思いの相手、ケイティ・ドーマに、自分がキック・アスだと明かし、無事カップルになる(それもバカップルに!)というエピソードが加わります。いってしまえば、映画版は気弱な青年が、ヒーローというアイデンティティを手に入れたことで、世に立ち向かう勇気も得ていく様を描いた“青春映画”です。ここでキック・アスとしての失敗や挫折はあっても、デイヴを支えるヒーロー像が揺らぐことはありません。ヒーローである自分は、自分をゲイと勘違いしていた憧れの彼女にも受け入れられ、復讐としての暴力も許される。バイオレンスやユーモアに彩られてはいるものの、実は“ヒーロー=正義”を絶対とする旧態依然な価値観なのですね。

 ところがマーク・ミラーの原作でのデイヴは、ヒーローとなって有名にこそなれど、報われることはありません。復讐を遂げて自信をもち、ケイティに“自分はゲイではない”とカミングアウトすると、大嘘つきの卑怯者よばわりされ、彼女の取り巻きたちにボコられます。ヒーローとしての苦難は、デイヴになんの報酬ももたらさないのです。何より映画版との象徴的な差は、ヒーローとしての先達であるビッグダディの過去でしょう。

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